日本辺境論 内田樹 ④

 では第四章、「辺境人は日本語とともに」です。

私たち日本人は物事を判断したり、行動したりするとき、何が正しいのかを論理的に考えて判断するよりも、「絶対的価値体」つまり、権力を持っている者や、物事をよく知っている者を探り当て、それに近づくことに重きを置く傾向がある、ということをこれまで見てきました。

これは日本的なコミュニケーションでも当てはまります。

そこで話される内容が正しいか正しくないか、ということを論理的に判断するよりも、誰が物事をよく知っているかそのことに自分の思考を重点的に使います。

さらにこれが進んで、政治やテレビを見れば一目瞭然なように、日本的なコミュニケーションは事の正否よりも、どうやって上位者の位に立つことができるかを競い合います。

中身を吟味しないで、声の大きいほうが選ばれ、断定的な口調をするほうが優位になります。

著者は、これが日本語と言う言語の特殊性に由来するのではないかと書いています。

 では、日本語と他の言語とはどこが違うのでしょうか。

中国は表意文字だけ、他のほとんどの外国語は表音文字だけなのに対し、日本語はそれらのハイブリッドだということです。

『漢字は表意文字です。かな(ひらがな、かたかな)は表音文字です。表意文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行っている。(略)日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、仮名を音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二か所に振り分けて並行処理している。(略)言語を脳内の二か所で並列処理しているという言語操作の特殊性はおそらく様々な形で私たち日本語話者の思考と行動を規定しているのではないかと思います。』

 漢字はその文字を見れば、だいたいどのような成り立ちで、どのような意味をしているのかがある程度わかる。

かなや英語やドイツ語やフランス語は、その文字を絵としてみても何も意味するところはありません。

そして、この表意文字表音文字は脳内の別々の部位を働かせて処理しています。

そのハイブリッドな処理の仕方こそが、日本人独特の思考や行動を規定しているのではないかと著者は言っています。

 それの際立った例がマンガである、と著者は言っています。

これほどまでに日本にマンガが普及し、極めて質が良く発展してきたのは、このハイブリッド言語が一躍買っています。

『養老先生のマンガ論によりますと、漢字を担当している脳内部位はマンガにおける「絵」の部分を処理している。かなを担当している部位はマンガの「ふきだし」を処理している。そういう分業が果たされている。(略)マンガを読むためには「絵」を表意記号として処理し、「ふきだし」を表音記号として処理する並列処理ができなければならないわけですが、日本語話者にはそれができる。並列処理の回路が既に存在するから。だから、日本人は自動的にマンガのヘビー・リーダーになれる。』

 日本列島はもともと無文字社会です。文字がありませんでした。

そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類のかな(仮名)がつくられました。

ここにも辺境的性格が入っています。

外から入ってきたものを「真の」と名付け、それまで日常で使っていた音声言語を「仮の」と名付けたのですから。

外来のものを正統の座に付け、土着のものが隷属的な位置づけになる。

明治になると、英語やフランス語やドイツ語で書かれた文献が大量に翻訳されていきます。

外来の文献を輸入するとは、そこにはもともとなかった考え方や発想、思考法を取り入れるということです。

もちろん、それまでになかった考え方なので、元々の日本語では訳すことが不可能です。

そこで大量に訳語として言語がつくられました。

自然も社会も科学も主観も客観も概念も観念も命題も肯定も否定も理性も悟性も現象も芸術も技術も、そのときにつくられました。

このように日本は外来を受け入れることに抵抗がありません。

それは辺境的性格を有しているからです。

 一方、その時期の中国はそのようなことはできなかった。

先ほど挙げた訳語の多くは中国でも用いられました。

さらに、中江兆民はルソーの「社会契約論」をフランス語から直接漢訳しましたが、これを読んで辛亥革命の理論的基礎を築き上げました。

なぜ、中国は独自で訳語を作らなかったのでしょう。

『これまで中国語になかった概念や術後を新たに語彙に加えるということは、自分たちの手持ちの言語では記述できない意味がこの世界には存在するということを認めることだからです。自分たちの「種族の思想」の不完全性とローカリティを認めることだからです。ですから、中国人たちは外来語の多くをしばしば音訳しました。外来語に音訳を与えるということは、要するに「トランジット」としての滞在しか認めないということです。母語にフルメンバーとしては加えない、それが母語の意味体系に変更を加えることを認めないということです。』

 中国は外来語を音訳としては取り入れるが、そこから中国語を新しく作るということはしなかった。

それは王化の中華思想という性格が寄与しているのです。

しかし、日本語はそれができる。

どちらが良いというものでもないですが、王化と辺境ではこのように言語の取り扱い方まで規定されてくるのです。

そして、言語が変わると考え方、行動が変わるのは言うまでもありません。

 最後に、著者の言葉を引用します。

『私たちの言語を厚みのある、肌理の細かいものに仕上げてゆくことにはどなたも異論がないと思います。でも、そのためには、「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語と言う、もうそこを歩むのは日本語だけしかいない「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。孤独な営為ではありますけれど、それが「余人を以ては代え難い」仕事であるなら、日本人はそれをおのれの召命として粛然と引き受けるべきではないかと私は思います。』