寝ながら学べる構造主義 内田樹 ④

 では、四銃士の二人目はロラン・バルトです。

「バルトの仕事はまとめて「記号学」という名称のもとに包括することができます。」と著者は言います。

私たちは記号というのをいろんな意味として使っています。

2+2=4の+と=も記号ですし、「猫が顔を洗う」というのは「雨の前兆」という記号です。

その本質は「あるしるしが、何かを意味すること」です。

しかし、ソシュールが定め、バルトが発展させた記号というのはもう少し厳密な意味があります。

ソシュールが使う「記号」というものは、ある社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことです。

制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」ですので、そこに因果関係や連想などが入ってはいけません。

つまり、これは著者が使っている例えですが、「空いっぱいの黒雲」は「嵐」の記号と私たちはみなしますが、これには自然的な因果関係があるので、ソシュールによれば記号とは言いません。

これは「徴候」と呼ばれています。

また、「てんびん」と「裁きの公正」も私たちは記号とみなしますが、これは「てんびん」から「裁きの公正」を連想させますので、記号とは呼びません。

これは「象徴」と呼ばれます。

では一体、どういったものが記号と呼ばれるのでしょうか。

著者は卓抜な例えを使います。

『例えば、将棋を指していて、歩が一個も見当たらなくなったとき、「じゃ、これ歩ね」といってみかんの皮をちぎって将棋盤においても、対局者二人がその「取り決め」に合意してさえいれば、将棋のゲームは遅滞なく進行します。

しかし、「みかんの皮」と「歩」の間には、いかなる自然的、社会的な結びつきもありません。

このでたらめさが「記号」の本質なのです。

ソシュールは「みかんの皮」のような人為的に作られた「しるし」を「意味するもの」(シニフィアン)、「将棋の歩のはたらき」を「意味されるもの」(シニフィエ)と呼びました。

このシニフィアンシニフィエを合わせたものを「記号」と呼びます。

そして、このシニフィアンシニフィエを結び付けるためには「集合的な記号解読ルール」を取り決めることが必要なのであり、かつそれで十分なのです。』

要するに、あるものとあるものの間に、何ら必然的な結びつきがないもの、代替可能なものであり、ただ単に社会集団が制度的に取り決めたものを「記号」と言います。

そして、その「記号」は言語はもちろん、ファッションや音楽や料理や車なども記号として扱われます。

ですから、バルトの記号学は、私たちの身の回りのどんなものが記号となるのか、それはどんなメッセージをどんなふうに発信し、どんな風に解読されるのか、を究明する学問になります。

バルトはそのような記号学を研究しました。

文学テクスト、映画、宗教儀式、裁判、ファッション、音楽、料理、スポーツなど、およそ目に触れる限りの文化現象を「記号」として読み解きました。

 そのロラン・バルト記号学から、ここでは「エクリチュール」を取り上げます。

私たちは思考するとき、ほとんどの場合は言語を使って思考していますから、その言語が違えば思考が変わってくるのは当然のことです。

日本語で、英語で、ドイツ語で思考する場合は、それぞれどうしても思考が変わってきます。

そして私たちが自由に語り、好きに書いていると信じているときでも、それと気づかぬうちに「見えない規則」に従って言語を運用しています。

この「見えない規則」には二種類のものがある、とバルトは考えました。

それが「ラング」と「スティル」です。

引用します。

『「ラング」というのはとりあえず国語です。

私たちは日本語を使っていますから、日本語で書いたり話したりするときには、日本語の文法に従い、日本語の語彙を用い、日本語に登録されている音を発音します。

何かを伝えようと思えば、私たちは日本語として通じる言葉遣いをしなければなりません。

これがラングです。

ラングが外側からの規制だとすると、それとは別にもう一つ、私たちの言語運用を内側から規制するものがあります。

私たちの個人的な「言語感覚」とでもいうべきものです。

私たちは一人ひとり固有の言語感受性を持っています。

話す速度、リズム感、音感、韻律、息遣い、などなど個人的な好みがあります。

そういった好みは一人ひとりの身体の深くに根を下ろしたものであり、語る言葉、書く言葉のすべてに「指紋」のようについて回ります。

この個人的で生来的な言語感覚をバルトは「スティル」と呼びます。

このようにラングは外側から、スティルは内側から、「見えざる規制」として、私たちの言葉遣いを統御しています。

しかし、実は私たちの言葉遣いを規制しているのは、この二つだけではありません。

バルトはこのほかに第三の規制を発見します。

それがエクリチュールです。

ラングにせよ、スティルにせよ、私たちはそれを選ぶことができません。

しかし、ある国語の内部に生まれ、ある生得的な言語感覚を刻印されたとしても、それでもなお言葉を使うときに、私たちはある種の「言葉遣い」を選択することが許されます。

それがエクリチュールです。

エクリチュールとは集団的に選択され、実践される「好み」です。

例えば、中学生の男の子が、ある日思い立って、一人称を「ぼく」から「おれ」に変更したとします。

この語り口の変更は彼が自主的に行ったものです。

しかし、選ばれた「語り口」そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。

それを少年は丸ごと借り受けることになります。

この「ぼく」から「おれ」への人称の変化はそれだけにとどまらず、たちまち彼のことばづかいの全域に影響を及ぼします。

発声も語彙もイントネーションも字体も、みんな変化します。

それどころか、髪形、服装、嗜好品から生活習慣、身体運用にいたるまで、少年は「おれ」という一人称にふさわしいものに統制する無形の圧力を感じずにはいられません。

エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を選び取ることである」とバルトは書いています。

そのような意味において、私たちは「エクリチュールの囚人」です。

エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為のみにおいてであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっているのです。

 ここでバルトが警告しているのは、あまりに広く受け容れられたせいで、とくに「どの集団固有のエクリチュール」とも特定しがたくなった語法の持つ危険性です。』

 私たちは「エクリチュール」を自分で選び取っていますが、その選択肢は既に決められていて 、そこから逸脱することはできません。

逸脱することは、日本語として機能しなくなるからです。

まだ誰も使っていない、新しい「エクリチュール」を発明したとしても、それを聞き取った相手は理解できずコミュニケーションが取れません。

コミュニケーションが取れない言語とは、意味をなさない言語です。

ですから、私たちは既にある「エクリチュール」を選択するしかないのですが、それを選択することによって、言語だけでなく感情も格好も好きな音楽も何もかも変化してしまいます。

私たちが自由意志で選択していると思っていることも、それは言語の構造によって思わされているのです。