日本辺境論 内田樹著 ③

 では三章、「機」の思想です。

「機」の思想とは何でしょうか。

著者は武道と禅家における「機」の概念を取り上げています。

武道では澤庵禅師が「不動智神妙録」で「石火之機」という言葉を使っています。

『「石火之機」と申す事の候(……)石をハタとう打つや否や、光が出で、打つと其のまゝ出る火なれば、間も隙間もなき事にて候。是も心の止るべき間のなき事を申し候。(……)たとへば右衛門とよびかくると、あつと答ふるを、不動智と申し候。右衛門と呼びかけられて、何の用にてか有る可きなどゝ思案して、跡に何の用か抔(など)いふ心は、住地煩悩にて候。』

石を打ったその瞬間に光が出て、打った瞬間に火が出る、それには間も隙間もない、時間がない、石と光と火が同時である、これが「石火之機」です。

右衛門と呼ばれたら、あつと答えるのが不動智と言います。

右衛門と呼ばれたら即答しなければならない。

右衛門と呼びかけられて、「さて彼は私に何の用があるのだろう」と答えてはならない。これを住地煩悩と言う。

著者は言います。

『石火之機とは「間髪を容れず」ということです。間髪というのは、情報の入力があって、変換装置で解釈し、適切な対応を出力するという継時的な過程のことです。しかし、武道では、入力―出力がリニアに継起することを「先をとられる」と解して嫌います。

 相手が攻撃してくる。その攻撃をどう予測するか、どう避けるか、どう反撃するか。そういう問いの形式で考えることそれ自体が武道的には「先をとられる」と解します。「相手がこう来たら」という初期条件の設定がすでに「後手に回っている」からです。』

 相手がこう攻撃してきたら、こう避けようというそれ自体が、すでに「後手に回っている」。

右衛門と呼ばれて、「私に何の用があるのだろう」と考えるのは住地煩悩である。

他者から攻撃や呼びかけがあり、それをどのようにかわそうか、何の用があるのかとタイムラグを置いてはならない。

右衛門と呼ばれたら、あつと即答しなければならない。

ここには主体や客体と言う概念の入る余地がありません。

客体からの呼びかけに主体が反応するというのは、すでにタイムラグがあるからです。

主体と客体は混ざり合っている。

著者は書いています。

『「石火之機」とはそういうことです。「間髪を容れず」に反応できるというのは、実は反応していないからです。自分の前にいる人と一つに融け合い、一つの共身体を形成している。その共身体に分属している個々の身体の動きについては、もはや入力と出力、刺激と反応という継起的な文節は成り立たない。』

 禅家では「啐啄之機」と言います。

雛が卵から孵るとき、母鳥は卵の殻を外側から、雛鳥は卵の殻を内側からつつきます。

その二つがぴったり一致したとき、卵から雛がかえります。

これも主体と時間が問題になっています。

卵から孵る前には雛鳥はいません。

同じように卵から子供が出てくるまでは母鳥もいません。

卵の殻が破れて初めて、雛鳥と母鳥は誕生した。

子が生まれると同時に母も生まれるのです。

 著者は言います。

『「石火之機」においても、「啐啄之機」においても、「外部からの呼びかけを受信する主体」と言うものは出来事の以前には想定されていません。「右衛門」と呼びかけが聞こえ始めた時に、右衛門の主体はまだ存在しておらず、「あつ」と答え終えた時に主体は既に存在している。「石火之機」を生成の場とする者だけが、「石火之機」の時間を生きることができる。』

 辺境人はこのような「機の思想」を内面化しています。

辺境人の「学び」というのは、二章でみたように、誰を師と仰げばいいのか、どのように学べばいいのかを知っています。

黄石公が落とした沓を拾って履かせるということから、普通は学ぶことはできません。

ですが、辺境人であればどうやって学べばいいのかを先駆的に知ることができる。

高名な学者や、名のある知識人は沢山いたと思うのですが、張良は黄石公を師とすれば兵法極意を学ぶことができると先駆的に知っていました。

「啐啄之機」では母鳥と雛鳥が同じところをつつかなければ卵が割れません。

「石火之機」では石と石が空中の同じポイントで出会わなければ火花は出ない。

辺境人には私たちがどこで出会うのか、どのように学べばいいのかをあらかじめ知ることができるのです。

著者は言います。

『「学ぶ力』というのは、あるいは「学ぶ意欲」というのは、「これを勉強すると、こういう「いいこと」がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。その点で、私たちの国の教育行政官や教育論者のほとんどは深刻な勘違いを犯しています。子供たちに、「学ぶと得られるいいこと」を、学びに先立って一覧的に開示することで学びへのインセンティブが高まるだろうと考えていますが、人間と言うのはそんな単純なものではありません。

 「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」です。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。ですから、もし「いいこと」の一覧表を示されなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子供がいたら、その子供においてはこの「先駆的に知る力」が衰微している。(略)狭隘で資源に乏しいこの極東の島国が大国強国に伍して生き延びるためには、「学ぶ力」を最大化する以外になかった。「学ぶ力」こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。』