カント 純粋理性批判 ③

 次に「認識」を取り上げましょう。

私たちは「物自体」は認識できなく、「現象」のみ認識できるため、カントが「認識」と言うときには、その「認識」するための「認識」、「認識」の仕方のことを言っています。

つまり「超越論的認識」とは一体どういうものか、ということです。

 ここで伝統的な真理観を述べておきます。

古来、デカルトでもスピノザでもライプニッツでも、感性や想像力といったものは誤謬がつきもので、真理を追究するためには邪魔なものと扱われていました。

真理を見定めるためには感性を退けて、知性による働きが必要だと考えられていました。

しかし、カントはこの考えから逃れます。

カントによると「超越論的認識」には感性と悟性の両方が必要だと考えました。

悟性とはとりあえずここでは知性のことだと思っておいてください。

感性を退けるのではなく、感性と悟性の両方が必要なのです。

純粋理性批判」から引用します。

『私たちの認識は心意識の二つの源泉から生じる。第一の源泉は、表象を受け取る能力であり、また第二の源泉は、これらの表象によって対象を認識する能力である。それだから、直観と概念とが、私たちの一切の認識の要素であり、直観を持たない概念も、あるいは、概念を持たない直観も、それだけでは認識になりえない。』

第一の源泉である、表象を受け取る能力は感性のこと、第二の源泉である、表象によって対象を認識する能力は悟性のことです。

要するに、認識は感性と悟性が合一することによってはじめて成立する、とカントは考えたのです。

では感性と悟性とは一体何なのでしょうか。

カントによると感性は『主観の個別的な性質に依存している。』しかも『諸主観が多様であるがゆえに異なりえる。』ようなものです。

つまり、感性とは主観的、個別的なものであって、その主観的、個別的なものはそれぞれの人間の間にあって人それぞれであり異なっている、ということです。

ハイブリッド画像というものを見たことがある人もいると思います。

これは二つの画像を組み合わせたもので、有名なものはアインシュタインマリリン・モンローのものでしょう。

同じ画像を見ても、遠視の人にはアインシュタインが見え、禁止の人にはマリリン・モンローが見えます。

また、男性と女性によって、同じ色を見ていても色の濃淡が違って見えるということも聞いたことがあります。

このように人によって感性は違ったものになりますので、、古来の真理観は否定したのです。

しかし、カントは真理、というより客観的な認識を得るためには、逆説的にこの主観的な感性がなければならないと考えたのです。

それはなぜかというと、私たちには「物自体」は見えなく「現象」しか認識できないからです。

「現象」しか認識できないため、まずはじめに、どうしても対象を感性で認識するということが必要となるのです。

 では悟性とは何でしょうか。

悟性とは理解するという言葉の名詞形であるドイツ語から翻訳した言葉です。

英語でいえばunderstandingです。

このunderstandingは普通、知性と訳されますので、本来は悟性と知性は共通の語を根に持ちます。

では同じ語である悟性と知性の違いは何かというと、簡単に言ってしまえば悟性は知性の没落した語なのです。

対象そのもの、物自体を把握できるときには知性という訳語が与えられ、物自体を把握することを断念したときに悟性となります。

ですから、ほとんど同じ意味なので、「悟性と言えば知性のことだな」と思っておけばよいでしょう。

 カントは認識するためには感性と悟性の合一が必要だと言いました。

でしたら、悟性は感性に対してどういう振る舞いをするのでしょうか。

言い換えると、感性で読み取った情報を悟性はどのようにしたら客観的認識が得られるのでしょうか。

黒崎政男のカント『純粋理性批判』入門から引用します。

『カントは第八稿において言う。「現象が内的必然性」を持つこと、「すなわちすべての主観的なものから解放され」て「客観的なもの」になるためには、「普遍的規則によって規定可能なものとみなされる」ことが必要であると。つまり「私の諸表象が対象となるためには、表象が不変的規則に従って規定されることが必要である」。すると「現象はそれが与えられたときの個別性からは独立にそれ自体として」、つまり「私の単なる主観的―個別的表象からは独立して」考えられる。』

 要するに、現象が客観的になるためには、個別性である感性で与えられたものに、普遍的規則に従って規定する、「悟性」を参入させて初めて成立する、ということです。

「感性」で対象を捉えたものを「悟性」の力で、つまりカテゴリーとして規定して、私たちは客観的な認識を得ることができる、というのです。

悟性には感性を「超越論的認識」に導くためのカテゴリーを持っており、それを使用して主観的、個別的なものが客観的、普遍的なものになる。

このカテゴリーには十二個の様式があるのですが、これを説明すると長くなるのでここでやめます。

最後に『純粋理性批判』の序文から引用しておきます。

『私たちが思考法の変革された方法として想定するところのもの、つまり、私たちが物についてア・プリオリに認識するのは、私たち自身がそのうちへと置きいれるものだけである。』