進化しすぎた脳 池谷裕二 ③

 では第3章「人間はあいまいな記憶しか持てない」です。

まずはこのリストを見てください。

「苦い、砂糖、クッキー、食べる、おいしい、心、タルト、チョコレート、パイ、味、マーマレード、甘酸っぱい、ヌガー、イチゴ、はちみつ、プリン」

これらの単語を少しばかり眺めてみてください。

 

さて、私たちは物事をよく忘れます。

どうでもいいことは憶えているのに、大事なことは忘れてしまうような気がします。

すっかりと記憶から消してしまうこともありますし、正確には思い出せないけどだいたいこんな感じといったあいまいな記憶だったりもします。

そのようなあいまいな記憶では現実に役に立たなかったりもします。

あまりにも忘れすぎてしまうので、写真を撮るように一度で正確にものを覚えられたらなと思った人は少なくないはずです。

実は、鳥は記憶力が凄く良い生き物で、あるものを記憶させるとほとんどコンピュータ並みに記憶することが実験で知られています。

鳥には、私たちが行うような物忘れはほとんどありません。

正確に確実に記憶に残しています。

しかし、このように完璧に記憶ができることのデメリットがあります。

食物を隠している巣を少し人間の手で変えて細工をすると、鳥はこの巣を見つけることができなくなってしまいます。

あまりにも完璧に巣の場所や形を記憶しているために、少し変形してしまうとそれが同じものと判別できなく、その巣のあたりをぐるぐると探し回ってしまうのです。

 

 さて、ここで先ほどのリストを思い出してください。

単語をすべて言うことはできるでしょうか。

普通は無理だと思いますが、ではこれならどうでしょうか。

「堅い、味、甘い」

この3つの単語のうち、どの単語が入っていたかならわかるのではないでしょうか。

あのリストの中に入っていた単語はどれでしょう?

すぐに答えられた人もいるかもしれません。

多分これだな、となんとなくわかる人もいるでしょう。

おそらく、ほとんどの人は「甘い」を選んだのではないでしょうか。

本書でもこの実験がなされたのですが、高校生は「甘い」を選んでいました。

ですが、「甘い」はあのリストに含まれていなくて、実際は「味」が含まれているのです。

この実験は要するにどういうことかと言うと、私たちの記憶は鳥のように完璧に記憶するということは難しく、共通項を見つけ出して覚えてしまう、あいまいな記憶を持ってしまうということです。

先ほどのリストをもう一度見てみます。

「苦い、砂糖、クッキー、食べる、おいしい、心、タルト、チョコレート、パイ、味、マーマレード、甘酸っぱい、ヌガー、イチゴ、はちみつ、プリン」

リストのほとんどの共通項は「甘い」であり、それ故に「堅い、味、甘い」のどれがリストに含まれていたかと言われれば、「甘い」と錯覚してしまうのです。

これは一見、私たちの記憶はいい加減なものだと思われますが、しかしこのいい加減であいまいな記憶こそが、人間の臨機応変さと適応力の源になっています。

先ほどの鳥の例でいうと、鳥は巣が少し変化していると、もうそれが自分の巣と気づきませんが、人間はあいまいな記憶のおかげで巣が多少変化したところで、前と同じ巣だと考えることができます。

私たちには共通のルールを見つけ出す機能が備わっています。

これを「汎化」と言います。

「汎化」とはつまり物事を抽象化して本質を見抜くということです。

抽象化できるからこそ、変形した巣でも前と同じ巣と見分けることができるし、新しい状況や環境でも共通のルールを知っているので、それに適応することができるのです。

また、私たちはコンピュータのように入力したらすぐに完璧な出力が出てくるわけではないですが、「汎化」した本質を組み合わせることによってクリエイティブな思考ができます。

そのような抽象的な思考ができる主な要因は、人間には言語があるからなのです。

言語があるから抽象的な思考ができる。

物理学会賞を受賞するほど優秀であった物理学者が、ある日ウェルニッケ失語症という病気になりました。

脳の中のウェルニッケ野という場所が駄目になって、言語をうまく扱うことができなくなりました。

特に抽象的なことは全然駄目になりました。

難解な物理学のことはもちろん、「何を飲みたいですか」と聞いても答えられなくなってしまった。

何を飲むか、という簡単な抽象的なことも答えられなくなりましたが、その代わりに「水を飲みたいですか」と聞けば、きちんと答えられる。

具体的に「水を」と聞けば答えられるが、抽象的に「何を」と聞けば答えられない。

これからも言語があるから抽象化思考ができるとわかります。

 そして何かをしようとする「意識」とか、こわい、悲しい、楽しいといった「心」も多くは言語から生まれる、と著者は言います。

私たちは普通、「悲しい」とか「恐い」とか「楽しい」という心の動きを、まず先にそういった感情が先にあってそれを「恐い」と名付けたと思っています。

何か対象があって、それから名前を付けると考えています。

ですが、ほとんどは逆で、「恐い」という名前を付けるから、私たちはそのような感情が沸き起こるのです。

恐怖という感情と関係のある脳の場所は扁桃体と言われているところです。

扁桃体が活動すれば、私たちが恐怖を感じた時に取る行動、対象物から逃げるとか、近寄らないとか、そういった行動が起こります。

ですが、この扁桃体には恐怖という感情自体は含まれていません。

感情は入っていませんが、恐怖を感じた時に起こる行動は入っています。

つまり、例えば森の中でクマに出会った時、扁桃体だけが活動したならば、刺激しないようにゆっくりと後ずさりして、隙があればダッシュで逃げるという行動がとれます。

ですが、扁桃体だけではクマに出会ったことが怖いとは感じません。

感じませんが、本能で逃げることはできます。

ではその恐怖という感情はどこにあるのでしょうか。

それは脳の大脳皮質にあるようです。

つまり、扁桃体が活動して、その情報が大脳皮質に送られると、恐怖という感情が私たちに生まれるのです。

先ほどの例えのように、森の中でクマに出会ったら脳の扁桃体が活動して逃げるという行動をとります。

そして、その後に「副産物」として恐怖という感情が沸き起こります。

扁桃体が活動することと、大脳皮質に情報が送られて恐怖という感情が発生するのがほとんど同時で人間には誤差が判別できないので、恐怖という感情が起こったから逃げると勘違いしますが、実際は先に行動があり、それから感情があります。

ですので、クマが出てきて逃げるという本能は感情と何の関係もない、ということになります。

では、なぜ人間には感情があるのでしょうか。

言い換えると、心は何のためにあるのでしょうか。

扁桃体が活動して本能が働けば、危険なものを避けるという生物にとって死活的な問題は避けられます。

本能があれば生物として種を存続させることができます。

ですが、物事を抽象化して本質を見抜き、新しい状況や新しい環境に即座に適応するためには「心」が必要になります。

私たちの世界は目まぐるしく変化し、新しいシステムが生まれ、新しい物事に出くわしますが、それに上手く対応し、適応するためには「心」が必要なのです。

「言葉」と同じで「心」は、物事を「汎化」するために重要なファクターだからです。