寝ながら学べる構造主義 内田樹 ⑥

 四人目、ジャック・ラカンです。

ジャック・ラカンは著者も言っている通り、その書物の中でまったく何を言っているのかわからない箇所が沢山あります。

使っている用語が難しいというのももちろんあるのですが、意味をつかもうとしても人間嫌いの子猫のようにするすると手の中を滑って逃げていくのです。

それはラカン自身が特定の意味に、一義的に取られたくないように書かれているかのようなのです。

はっきりとした意味ではなく、その意味と意味との関係性や運動の仕方こそ重要なのかもしれません。

ラカンの著書、エクリの序文を引用します。

「文体は人そのものである。我々はこの言葉に賛成することにしよう。ただし、次のことばをつけて、つまりひととは話しかけられているほうの人のことではないのか。

これはおそらく、我々が進級させた原則に対して素直に満足を与えるだろう。すなわち、言語活動において、はわれわれの伝言は他者(l‘Autre)からわれわれにやってくる。しかもそれを最後まで現表するために、言い換えると逆立ちした形式を取ってやってくる。(また、我々によって原則が伝えられたとき、それが最良の刻印を受け取ったのは抜きんでた他者(un autre)からであるから、この原則は、それ自身の言表行為にも適用されることを思い起こそう)」

 このように難解な精神分析者であるラカンを、できるだけわかりやすく著者は解説しています。

その中でラカンの「鏡像段階」と「父―のー名」の二つの理論だけを取り上げています。

鏡像段階とは人間の幼児が、生後六か月くらいになると、鏡に映った自分の像に興味を抱くようになり、やがて強烈な喜悦を経験する現象をさします。人間以外の動物は、最初は鏡を不思議がって、のぞき込んだり、ぐるぐる周囲を回ったりしますが、そのうちに鏡像には実態がないことがわかると、鏡に対する関心は不意に終わってしまいます。ところが、人間の子供の場合は、違います。子供は鏡の中の自分と像の映り込んでいる自分の周囲のものとの関係を飽きずに「遊び」として体験します。この強い喜悦の感情は幼児がこの時に何かを発見したことを示しています。何を発見したのでしょう。

子供は「私」を手に入れたのです。」

生まれてすぐの段階では、私たちはまだ自我が発達していません。

笑い、泣き、食べて、眠る、そのような本能だけの段階です。

母親のことばを聞き取ったり、真似したりして言葉を覚える段階でもありません。

私というものがまだありません。

そして生後六か月くらいになると、鏡を通して、自分というものを初めて手に入れることができるのです。

鏡に映った自分を見て、はじめて私というものを手に入れるのです。

しかし、この鏡に映った私は、実は本当の「私」ではありません。

鏡に映った「私」なのですから、実際の「私」ではなく、「私」によく似た虚像なのです。

ラカンはこう言っています。

「大事なのは、この型が、<自我>が社会的にどういう存在であるかが決定されるに先んじて、あらかじめ虚構の系列の内に<自我>の審級を定めるということである。この<自我>は決して個人によっては引き受けることのできぬものであり、あるいはこういう言い方が許されるなら、主体の未来と漸近線的にしか合流しえぬものである。弁証法的な総合によって、主体がいずれ<私>として、おのれに固有の現実との不一致をうまい具合に解消することになったとしても。(略)たしかに<私>とその像の間にはいくつもの照応関係があるから、<私>は心的恒常性を維持してはいるが、それは人間が自分を見下ろす幽霊や<からくり人形>に自己投影しているからなのである。」

 鏡に映った私は実際の私ではなく、言ってみれば幽霊やからくり人形である。

それに自己投影して初めて、私というものを手に入れることができる。

そのようにラカンは言います。

自我の芽生えの段階で私は自分を視野におさめ確かめることができず、虚像を通じてしか私を立ち上げることができません。

これは後に、言葉を使って私という自我を立ち上げるときも同じようなもので、自分特有のことばを使って私を立ち上げるのではなく、昔から伝えられてきた言葉、使い古された言葉を使ってしか、私を立ち上げることができないということにつながるのではないでしょうか。

 ところで、私たちは言葉を交わし、コミュニケーションを取って他者と関わります。

他者と関わるというのは社会的人間になるという意味にもなります。

そのような社会的人間になる、つまり大人になるためには、ラカンによると「エディプス」と呼ばれるものを経験しなければなりません。

「エディプスとは、図式的に言えば、子供が言語を使用するようになること、母親との癒着を父親によって断ち切られること、この二つを意味しています。これは「不正の威嚇的介入」の二つの形です。これをラカンは「父の否=父の名」(Non du P ére/Nom du P ére)という語呂合わせで語ります。」

私たちは母親とのコミュニケーションで愛情を育み、母親のことばを真似ることで言葉を覚えます。

しかし、そのような母親との癒着をいつまでたってもしていては、当然のことながら社会化することはできません。

私たちを社会的人間にする、そのために父は母と子の間を断ち切ります。

それが父親の仕事です。

そして社会的な言葉を学ぶために、世界の様々な現象に切れ目を入れ、名があることを教えること、それも父親の役目なのです。

父親は子に対して切れ目を入れ断ち切る、そのような「不正の威嚇的介入」があって初めて大人になります。

しかし、子供にとってそれは喜ばしいものではもちろんありません。

今まで不変で、安定していたものが断ち切られるのですから。

エディプス物語では子であるエディプスが父であるライオスを殺してしまいます。

私たちもエディプス期には実際には殺しはしませんが、憎み、反目し、怯え、象徴的に父親を殺すことになるでしょう。

しかし、それが大人になるということなのです。