カント 純粋理性批判 ①

今回はカントの純粋理性批判を紹介したいと思います。

とはいっても、私は「純粋理性批判」を通読したことがありません。

手に取ったことがある人はわかるでしょうが、恐ろしく難解な書物であり、聞いたことのない用語が沢山出てきて、読み通すのはかなりの困難を極めます。

ですので、今回は「純粋理性批判」の解説書として定評のある、【黒崎政男著、カント『純粋理性批判』入門】の紹介ということになります。

 さて、今回は哲学書なのですが、哲学書を読むというのはどのような意味を持っているのでしょうか。

仕事や人間関係や社会といった現実にあまり役に立たないということで、哲学書を敬遠している方も多いと思います。

確かに何か哲学書を読んだところで、「営業成績が上がる」とか「夫婦仲が良くなりました」とか、そういったことは期待できません。

そもそも、本を読んだり学ぶということは、それを学ぶことによってこういう利益があるから学ぶのだ、と指し示せるものではないと私は思います。

そのような学ぶ前の価値観やものさしで測れるものならば、あまり意味がないのではないかと私は思います。

学ぶというのは、それを学ぶことによって、その前の価値観やものさしを変化させるということだからです。

ですので、学ぶ前にそれがわかっていたら、たいしたことではなのではないか。

とはいっても、とっかかりと言うものが必要でしょう。

私が哲学書を読んで有益だなと思ったことの一つは、物事の根本を考える思考法を身に付けることができる、ということです。

物事をラディカルに考える癖を身に付けることができる。

政治や海外情勢なども、テレビやインターネットで配信されてる表面的な部分から、本質的な「そもそもこれはどういうことか」と言った考えをすることができるのです。

よく、どのようなタームでも持論を展開できる人がいます。

対米貿易や国内政治の問題、年金や経済までさまざまに普通とは違った、その人独自の論説ができる人がいます。

そのような人は、他の一般の人とは違った情報を得ているわけではありません。

テレビや新聞やインターネットなど情報はほとんど同じなのです。

違いはその情報の取り扱い方にあります。

そのなんでもない情報から、物事を根本的に考え展開する能力があります。

哲学書を読むことはそのような「根本」を学ぶのに非常に有効だと、私は思います。

 さて、前置きはこのぐらいにして、カントの「純粋理性批判」の話に移ります。

カントはこの「純粋理性批判」の中で様々なテーマを取り扱い考察しています。

時間や空間、神の存在証明など多岐にわたるのですが、岩波文庫で上・中・下合わせて約1150ページもある書物の内容を解説書一冊で紹介できるわけがないですので、この黒崎政男氏の「カント『純粋理性批判』入門」では、「超越論的真理」とは何かというテーマを主に取り上げています。

 いきなり難しい用語が出てきましたが、心配いりません。

このような用語はこれから山のように出てきます。

ですが、しっかりと順を追って読み込んでいけば、何とか大枠は捉えることができるかと思います。

 では、この「超越論的真理」とは何かと言いますと、「客観的な認識とは何か」という意味になります。

主観的な認識ではなく客観的認識です。

例えば家を見ているとします。

この家を見ているときの認識は客観的なのか、主観的なのか、人間が家など物事を見るときは客観的に見えているのか、私たちの身体や脳の構造などによって「家の本質」とでもいうべきものが見えていないのではないか、そういったことを指します。

引用します。

『常識では、正しい認識とは、事物の姿を主観を交えずありのままに受け取ること、と思われている。しかし、カントが「純粋理性批判」で明らかにしたのは〈あるがままの事物〉を捉えられると考えるのは愚かな妄想に過ぎず、認識は徹頭徹尾、主観的な条件で成立しており、そのことによってのみ、認識は客観性を有する、という主張なのである。つまり、素朴にありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなり、逆に、世界は主観による構成物だと考えることで、はじめて客観的認識が成立する、というパラドキシカルな主張こそ、「純粋理性批判」の根源的テーマなのである。』

 カントによると、私たちの認識とはどこまで行っても主観的なものであるが、そのことによってのみ、認識は客観性になる。

認識が主観的だからこそ客観的になる、とカントは言っています。

これだけではちょっと意味が分かりませんよね。

結論はこのようになりますが、なぜそうなるのかをカントは(そしてこの解説書は)解説しているのです。

 さて、ここで有名なカントの「コペルニクス的転回」の主張を、原著の「純粋理性批判」から引用します。

『これまでは人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みは、この前提の下ではすべて潰え去ったのである。そこで、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、一度試みてみたらどうだろう。』

 なかなか理解しがたい主張です。

対象が私たちの認識に従わなければならない。

私たちは家という対象があるから、家を認識できると思っています。

しかし、ここでカントはそれではダメだったと言っています。

それではダメで、家という認識があるから、そこに家という対象が出現するのだと言ってるのでしょうか。

それなら対象がないのに、どうやって家という認識が先にあるのでしょうか。

はてながいっぱい飛びます。

しかし、これこそ「純粋理性批判」を貫く根本的な発想なのです。