習慣、あるいはルーティン
私はルーティンが好きだ。
朝7時には起きて、9時には仕事をし、12時には昼ご飯を食べて、17時には仕事を終え帰宅し、本を読み、酒を飲みながら映画を見て、0時には眠りにつく。
実際にはこのような生活習慣ではないが、私はほとんど判で押したような生活に快楽を感じる。
これは一つには自分で自分の予定を組んで自由に生きたいからであり、一つにはルーティンそれ自体が結構刺激的であるからだ。
ルーティンが刺激的であるというのはあまり納得をしてもらえないものであるが、それは毎日同じことをすることで、加速度的に上達する経験があるからだろうと思う。
これはどういうことかというと、例えば毎日カントの「純粋理性批判」を数ページ読むとする。
もちろん初めは意味が分からなく苦行のようになってしまうが、これを毎日、何か月、あるいは何年も続けることによって、ある時ふっとカントが何を言いたのかわかるようになる。
「なるほど、そういうことを言いたかったのか」という瞬間が必ず訪れる。
これはちょろっとやってみただけでは到達できない。
そこから、また毎日「純粋理性批判」を読みつづけることで、また何か月、何年もかかるかもしれないが、ある時「いや、まてよ、今までそう考えていたけど、こうも取れるのではないか」と違う思考がわいてくる。
毎日同じ本を読むことによって、自分の変成がくっきりとわかるのである。
本自体は何も変わっていない。
だが自分が時間とともに変わったせいで、本が変わったように錯覚する。
本という尺度があれば、それをものさしとして相対的な自分の立ち位置というものがわかるようになる。
また、毎日ピアノの練習をする。
初めは指が滑らかに動かなくてぎこちない音を出していたのが、毎日続けるうちに、ある時、指がピアノに慣れてくる。
頭で考えて曲を弾いていたのが、指が自発的に動いて一曲を作り出していく。
毎日練習することで、昨日と今日、今日と明日の違いが良く判別できるのである。
そういったことに、私は大変強い快楽を感じる。
これはかなり長時間のスパンが必要である。
しかし、世の中には物事を短期的に、早く成果が欲しくて焦っている人が多く、一つのことに長続きしない。
なにかをやったらすぐに報酬が欲しくなる。
お金を払ってすぐに商品を受け取る、それがどんな商品かがわかっていれば嫌々ながらでも何日か待てるが、どんな商品かわからないのなら我慢できない。
それでは何かを本当に習得するのは難しいと思うし、楽しみもあまりないのではないだろうか。
短期的にできることはそれなりである。
それは成果がわかることしか習得できない。
自分が考えている以上のことは絶対にわからないのだ。
ということは、つまりたいしたものではない、ということである。
また、早く成果が欲しいと思う人は、辛抱が足りないと思われているが、実はそういうわけではないのだろう。
そういう我慢とか克己心とか忍耐強くとかそういうことではなく、毎日の差異に鈍感なだけではないだろうか。
昨日と今日、ほとんど同じことをしていてもどこか違うところがあり、自分は変化しているはずで、むしろ毎日同じことをしているがゆえに、昨日と今日の違いが明確になるのである。
その違いが大変興味深いものなのである。
「純粋理性批判」を毎日読むことは確かに初めは苦痛のところもあるが、毎日読むことで差異が際立ってくる。
その差異が楽しく、長期間のスパンを続ける原動力になるのだと思う。