カント 純粋理性批判 ②

さて、もう一度カントの「コペルニクス的転回」引用します。

『これまでは人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みは、この前提の下ではすべて潰え去ったのである。そこで、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、一度試みてみたらどうだろう。』

これを真ん中で二つに区切ってみます。

その前半部分、つまり『これまでは人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みは、この前提の下ではすべて潰え去ったのである。』、これを考えてみたいと思います。

ここでカントは、認識は対象に従わなければならない、つまり家を認識するとき、家という対象があるからこそ認識できるのだと想定した場合は、すべて駄目だったと言っています。

私たちは普通、家という対象があるから家を認識できる、とみなします。

山があるから山が見え、川があるから川が見え、花があるから花が見える。

このような発想を、哲学では素朴実在論と言われたりします。

先にものがあるから私たちは認識することができる。

ですが、カントによるとこの発想ではダメだったと言っています。

一方、18世紀のイギリスの哲学者バークリーはこう言っています。

『存在するとは、知覚されることである』

要するに、家が存在するというのは、家が知覚されるからであって、もし家が知覚されないのであれば、それは家は存在しないと言える、といった考え方です。

家や山や川といったものは自然に存在しているわけではない。

ただそれらが知覚できるから存在している、とバークリーは考えます。

これを観念論と言います。

この観念論も、言われてみればそうかな、と思うのではないでしょうか。

ここに何かものがある、と言われても、それが目に見えなく、音も聞こえなく、手で触ることもできなければ、それは存在しているとは判断できません。

例えば神というものは知覚できないものであるから、存在するとは思えない、と私たちは考えることもできます。

当時、カントを批評した論文は、カントのことをこの観念論として槍玉に挙げたのですが、カントは従来の観念論とは全く違うと弁論します。

ではどう違うのでしょうか。

ここでキーになってくるのは、「認識」と「現象」です。

まずは「現象」を取り上げましょう。

カントの『純粋理性批判』から引用します。

『現象とは、知覚の対象である。現象は、何らかの客観一般の内容を含んでいる。

私たちは、〈物自体としての対象についての認識〉を持つことはできず、〈感性的直観の対象となるもの〉つまり、〈現象〉についてのみ、私たちは認識することができる』

私たちは、〈物自体としての対象についての認識〉を持つことはできない。

ここでの〈物自体〉というのはプラトンイデアや実体というものとほとんど同じと考えてよいと思います。

つまり、私たちが見えている物とは関係なく、客観的に、主体的にそれ自身で物が成立するためのもの、というような意味です。

本質と言うとかなり語弊がありますが、物が存在するための物と言った感じです。

カントはここで私たちが知覚するときにはその〈物自体〉は見えないと言っています。

そして、見えるのは〈感性的直観の対象となるもの〉つまり<現象>だけだと。

現象とは<感性的直観>つまり、思考したり、頭を働かせたりせずに、ただ見えたり、聞こえたり、手で触ったり、味覚で感じたり、そういった五感で感じられるものなのです。

そのような現象とは私たちが見るときの対象となるもので、例えば家を見るときの家そのものが対象となり、これが客観一般を含んでいるとカントは言っています。