習慣、あるいはルーティン②
習慣は何事かを成し遂げるのに非常に大事なものである。
短期的なパッションでの集中より、毎日の繰り返しによって時間をかけるということで非凡なものが出来上がる。
それはちょっとやっただけのものとは内容も形もかなり違ってくる。
それに触れてみればすぐにわかる。
繰り返し同じようなことをするというときに、実はそれをやっている時間以上に、それをやっていない時間が重要とも言えるのである。
というのは、それをやっている時にはわからないことが、やっていない時に突然わかったりすることがあるからだ。
毎日1時間「純粋理性批判」を読んでいるとすると、残りの23時間が重要である。
その23時間の内に私たちはいろんな刺激にさらされるわけであるが、そのやっていない時間の内に「これって、純粋理性批判の中のあれと似てないかな」とか「あのことはこういうことだったんだ」ということがわかってくる。
私たちは本を読みながらそれについて考えているが、それを忘れた時に、無意識に自分の身の回りのことと関連させたり、関係づけたりしてしまうのである。
そして、それは多くの場合、読みながら考えている間にはとても想像がつかない、自分自身がなるほどと思えるような考えが出てくるのである。
「純粋理性批判」を読んでいる間にはなかなか出てくるものではない発想が、意識から外れて、他のことをしているときに生まれてくるのである。
なので、逆説的になるが、それをやっている時間を作るより、それをやっていない時間を作ることが大切になってくる。
無意識の時間を作ることを、意識的に作ることが重要なのである。
習慣化するということは、一日の内にそれをやっていない時間を作るということである。
しかし、もちろんやっていない時間を作るということは、やっている時間もつくらなければならない。
やっている時間というものがなければ、やっていないという時間がない。
そもそも、それをやっていないという概念がないからである。
なので、できるだけ毎日、どれだけしんどくても、どれだけ面倒くさくても、どれだけ苦痛でも、少しでもいいのでやることが重要なのだ。
むしろ初めはほんの少しだけでもいい。
そのほうが継続する負荷が減るからだ。
ランニングを継続するのであれば、初めは町内一周だけとか、一区画だけとか、明日も続けられるように余力を残しておくことにする。
そうしないと未来の負担を先取りしてしまい、ランニングをやる気が起きなくなる。
今の自分の体力より上を目指してしまうとかなりへとへとになり、「これを毎日続けるのは大変だ」と必ず思ってしまう。
それよりも「これぐらいなら毎日続けるのも楽勝だ」という距離がちょうどいいのである。
負荷が低くても、毎日続けていれば自分の心肺機能は上がり、足腰は丈夫になってくる。
続けているうちに、「もう少し走ってみようかな」という気に必ずなってくる。
そしていつの間にか毎日5キロ走ることもできるようになってくる。
毎日続けるうちに、徐々に自分の体力は増え、ある日突然、加速度的に増加していくのだ。
そうなったら、もうしめたものである。