「直観」と「ひらめき」

 「直観」と「ひらめき」の違いをご存じだろうか。

どちらも何か問題や困難などが起こった時に、ぱっと意図せずに解決策などを思いつくことを言うが、違いはその思いついたことに理由が言えるかどうかである。

理由が言えるのが「ひらめき」で、言えないのが「直観」である。

「ひらめき」は思いついたときに「これがこうで、こうなって、ああなるから、こうなんだ」と、後で論理的に、なぜこう思ったのか推論ができる。

対して「直観」は、思い付きに対してなぜこうなったかは言えないが、ただしこれが正解であると多少の疑惑はあるとしても、ほとんど確実に断言できるのである。

同じような機能であるが、差異は意外と大きい。

「直観」や「ひらめき」が働いているときの脳の機能も違うらしい。

「直観」が働いているときには脳の「大脳基底核」という部位が活発に活動していることがわかっている。

この「大脳基底核」は手続き記憶の場所として知られている。

手続き記憶とは、自転車に乗ったり、バットを振ったり、歩いたり、要は無意識でもできるようになるための記憶である。

これらは初めて動作したときに、いきなり上手くできたものではなくて、何度も何度も反復してやっとできるようになるものであり、それが「大脳基底核」の関与している場所なのである。

その手続き記憶の場所である「大脳基底核」が、「直観」の働く時の場所でもあるのなら、これら二つは関係しているのではないか、と想像するに難くない。

 棋士羽生善治は、複雑な局面でなぜかはわからないが次の一手はこれしかない、と確信を持てるときがあるという。

論理的に考えだした末に出てくるのではなく、ぱっと思いつくのだ。

そして、その一手は後から考えると勝負を左右する重要な局面であるのだ。

将棋の格言に「長考に好手なし」というのがある。

長い時間考えて出した一手は、最善手とはならない、という意味である。

読み筋は膨大な数があり、どれだけ考えたとしても確実な正解にはたどり着けない。

直観で出てきた一手が最善手である場合が多いということである。

彼らプロの騎士たちは小学生の時から、何千回も何万回も将棋を指し、研究し、試行錯誤し続けることで、そのような直観が出てくるのだ。

私たち一般人には最善手は考えてもわからないし、直観なんて出てこない、出てきたとしても最善手ではない。

それはその作業を膨大な時間、訓練し、記憶し、勉強することによって得られるのである。

「直観」は訓練し、記憶し、勉強することによって得られる。

つまり、誰だって膨大な時間をかければ得られるということだ。

しかも、その「直観」は年齢を重ねれば重ねるほど研ぎ澄まされるのである。

続きます。