浴びるように本を読む効用

 「若者の日本語運用能力が低下している」、と言われて久しい。

私も一応若者であるので、自分にあてはめてその自覚は十分にある。

確かに言葉をよく知らないし、言いたいことをうまく伝えることができない。

だが、日本語運用能力が低下していると自覚しているのは、誰かと比較しているわけであるが、現在生きている人たちと比較しているわけではない。

現在の人たちから、リズムのある言葉、意外性のある言葉、身震いするような体が反応する言葉を聞くことはあまりない。

それは今の若者から聞くことがあまりないのと同じである。

では、どこと比べて低下しているのかと考えてみると、明治生まれと、1900年代初頭というのがキーワードのようだ。

夏目漱石森鴎外、そのあたりの本を読んでいると、自分が使ったことはないが気持ちのいい言葉、意味は分からないがとにかく先に進んで読みたくなるような言葉が出てくる。

また、自分が感じたことのないような情感が出てくる。

そういうところと比べると「ああ、私も日本語をあまり知らないな」と感じる。

現代に生きる人たちからは、ごく一部の例外を除いて、そのようなことを感じることはない。

 夏目漱石が英語を習得する青年のために論じた本がある。

うろ覚えではあるが、内容は大体このようなものだ。

英語を学ぶためには、英語の本を大量に読まねばならない。

わからないところ、意味が理解できないところはとりあえず飛ばして、とにかく大量に読むことが必要だ。

単語がわからなくても、前後の文章で推測することができるし、そこで躓いて読み通せなくなるよりは、多少不明なところがあっても繰り返し読むことによる効用のほうが大きい。

浴びるように本を読めば、英語に慣れておのずと習得できるようになる。

そのようなことが書いてあった。

これは日本語でも、もちろん同じことであろう。

私たちは英語どころか、日本語さえおぼつかない。

日本語さえあまり知らないのに英語が多少話せたところで、何の意味があるのだろう。

私たちはまず、浴びるように日本語の本を読むべきだ。

心臓がどきどきする、毛が逆立つような、フィジカルに作用するような本を何度も何度も読むべきだ。

なぜこんなにも読まされるように書けるのだろうか、というような意味を、ただ頭の中で考えてみるだけではわからない。

それは何度も繰り返し読んでみて、自分に血肉化し、身体の組成を変えて、内面化するまで読んで、はじめてそのようなぐいぐいと読者を引っ張る言葉を紡ぎだせることができるのだろう。

それは、単語に分解して、字句の構成を子細に検討して得られるものではない。

学者のように研究するものではない。

それを丸ごと自分が呑み込むようにして、はじめて得られるものだ。

それを食べ、咀嚼し、呑み込み、血液となり、血肉と化すように、他者を内に取り込むのだ。

私たちは生まれた時から他者を内に取り込んできた。

母親と接することで言語を理解したように。

私たちの知らない感情や視点などは、言語を自分に内面化し使うことによって、理解できるようになる。

赤ちゃんが母親と接するように、私たちは本と接しなければならない。