マルジナリア
マルジナリアという言葉をご存じだろうか?
「余白への書き込み」という意味だそうだ。
本を読みながら思いついたことを、余白に書き込んでいくことである。
夏目漱石やエドガー・アラン・ポーなどがよく引き合いに出されるようで、彼らは結構びっしりと書き込んでいるらしい。
私も本を読んで思いついたこと、同意すること、反論すること、そこから連想して一見全く関係のないことまで、書き込みをよくする。
その際には該当箇所に線を引いて、そこに注釈のような形で書き込んでいく。
これには二つ利点があるように思う。
一つはその本から刺激を受けて発想したことを書き込むことによって、その本から得られる以上のことを考えることができる。
それがアイデアとなって、実生活の面で役立つこともある。
役立つことがあるというか、その発想は使えるか使えないか書いてる段階ではわからないが、余白に書き込むことによってすぐに消えてしまいそうになる発想を頭の片隅に収めておくことができ、それに適した状態に面したとき、すぐに使えるようになることがある。
アイデアとか発想などは、思いついたところですぐに忘却の彼方に押しやられてしまう。
何かが来た、と思った瞬間にはもうどこかに行ってしまう。
それを素早く捕まえて、自分なりに加工して、調理して、本の余白に書き残しておくのだ。
そうすれば机の引き出しにしまっておくように、必要な時にすぐに取り出すことができる。
自分なりに加工や調理をすると書いたが、最初の発想というものは形の定まらない、もぞもぞと動く小動物のようなものである。
それは言葉になる前の言葉、形になる前の形である。
その形の定まらない状態のほうがむしろどんなものにでも変化し、良いアイデアにも、悪いアイデアにもなりうるのであるが、そのままの状態では言葉で残しておくことができないし、記憶に残しておくことができない。
なので、できるだけ元の状態を維持したまま書き残そうと努める。
二つ目の利点は、その本に何が書いてあるか、どういう論理なのか、どこが素晴らしいところなのか、記憶に残せることである。
最近聞いた話であるが、どれだけインプットできるかは、それをどれだけアウトプットしたかによるらしい。
本を読んで印象に残った言葉や論理を実際に使うことで、それらを忘れないように、記憶にとどまらせておくことができる。
これは経験的にもその通りである。
良い話を聞いたら他人にしゃべる、良い本を読んだらそれについて書いてみる、そういったことをすると確かに記憶に残る。
そして、本の余白への書き込みはアウトプットである。
本を読むためだけのものにするのはもったいない。
本はノートにもするべきなのだ。
そうすれば、今まで以上に本を活用できるだろう。
この二つの効用はどちらも記憶に残すことが共通している。
一つは刺激されて考えられた自分の発想を記憶に残すこと。
もう一つは、本に書いてある内容を記憶に残すことである。
本を読んでもすぐに忘れてしまう、という経験は誰でもあるだろう。
せっかく本を読むのなら、できるだけ忘れないようにしたい、と誰もが思うだろう。
本を読むことで、これら二つのことを習得できるのである。
ちなみに、書き込みをするためにはペンが必要になる。
私はペンをなくしてもいいように複数買って、本のしおり代わりにしている。
そうすれば、本を読もうとするたびに、いちいちペンを探す手間が防げるのである。