疲れた時は、無意識に任せてみる
人間には大雑把に言って、意識と無意識がある。
この意識と無意識の占める割合は、無意識のほうが莫大に多い。
意識は無意識の氷山の一角である、と言われることもある。
私たちが考えたり、行動したり、何かを成し遂げたりしようとしたことは、無意識という広大な海の中で、両手で水を1すくいしたぐらいのほんの少量のものである。
そして、意識は無意識の影響を受けている。
例えば、今日の晩御飯は何にしようか、と考えるときにも、大方は無意識によって決めている。
では、無意識とは一体何であろうか?
無意識は、今までの記憶や経験の積み重ねである。
例えば、散歩しようと思って意識したとしても、少し歩いているうちに、何の意識もなく勝手に足は動いている。
また、一度自転車の乗り方を覚えれば、何年たった後でも、簡単に自転車に乗ることができる。
そういった記憶や経験が、私たちの意識を作っている。
それだけでなく、私たちが生まれる前の記憶も無意識は持っている。
歴史を習って、その意識をトレースしたというだけでなく、言葉に記憶が染みついている。
言葉というものは私たちが生まれるずっと以前からあるものであり、それが成立する過程に記憶や経験が含まれているのである。
どういうことかというと、言葉というものは、わんわん吠える動物がいたから犬と名付けたわけでなく、犬という言葉を作って、わんわん吠える四本足の哺乳類をカテゴライズしたのである。
原因と結果は、たいてい私たちが認識しているのとは逆なのである。
このカテゴライズの仕方によって、私たちはその対象を認識するのであるし、どうカテゴライズをするかで、私たちの認識は変わる。
つまり、カテゴライズの仕方を、私たちは言葉を覚えることによって習い、その言葉を使うことによって、その記憶や経験が呼び覚まされる。
その証拠に、日本では蝶々と蛾をきれいな虫と害虫に分けるが、フランス語ではどちらも蝶々という呼び名である。
さて、無意識は私たちの何十年かの自分の記憶と経験、そして歴史の記憶までも含んでいるということは、私たちの意識とは比べ物にもならない「知」があるということである。
そこで、私がお勧めしたいことは、もし何か問題があったり、悩んだりして疲れた時は無意識に任せてみる、ということである。
実際、私も経験上、この方法はとてつもない効果があった。
どうするかというと、何か問題があってどう考えてもわからないとき、悩んでどうもできないときは、その問題や悩みをすっかり忘れてしまうのである。
ただ、特に悩みは忘れるといっても、そう簡単にできることではないだろうから、別のことに集中するというのが一番いい方法だと思う。
全く違う問題を考えてみたり、本を読んでみたり、散歩をしたりする。
つまり、何か集中できることを探し、それに今、集中するのである。
その時に無理に問題や悩みを思い出さなくてもよい。
それでも忘れられないのであれば、遊ぶのが良いだろう。
遊ぶことに集中できないことはないと思う。
ただし、何日も何か月も、その問題や悩みを忘れては駄目だ。
そうなると、それらのことをすっかり忘却の中に入れてしまうことになるし、(悩みはそれが一番の解決策の場合も多いのだが)、無意識が上手く働かなくなってしまう。
何日も忘れるのではなく、他の何かに熱中しつつ、折に触れ思い出すのが良い。
思い出すときにも無理に考え詰める必要はない。
そうすれば、自分でも考え付かなかったような、思いがけないアイデアが生まれてくるのである。