寝ながら学べる構造主義 内田樹 ②

 ソシュール言語学者であり、1907年から1911年にかけて、スイスのジュネーヴ大学で、「一般言語学講義」という専門的な講義を行っていました。

彼の残した功績は多大なもので多岐にわたるのですが、構造主義にもたらした最も重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではないです」と著者は言います。

この考えは、もしかすると私たちの常識とは違うものかもしれません。

私たちは一般的には「ものの名前」をことばで表していると思っています。

猫という言葉は哺乳類でニャーと鳴く動物の名前であるし、コップとは液体を入れて飲むための器の名前であるし、ポチとは向かいのおばあさんが買っている犬の名前である、と私たちは思います。

このような私たちに馴染みのある言語観を、ソシュールは「名称目録的言語観」と名付けました。

「名称目録」とは、つまり「カタログ」です。

この「カタログ」というのは、物の名前は人間が勝手につけたものであって、ものとその名には別に必然性があって結びついているわけではないということを意味しています。

その名前は単にそう呼ばれているからそうなのであって、そのもの自体から必ずその名前が導かれるわけではありません。

「コップ」を「あじさい」と呼んでもいいし、「ポチ」が「太郎」でもよかったわけです。

猫を英語では「cat」と呼びますし、ドイツ語では「katze」(カッツェ)です。

そこに必然性はありません。

ここまでは問題ないかと思います。

しかし、この言語観はいささか問題のある前提に立っている、と著者は言います。

その問題のある前提とは「名付けられる前からすでにものはあった」ということです。

確かに私たちはそのように考えます。

犬という言葉を初めて作った人は、ワンワン鳴く哺乳類の動物を見て、犬と名付けたと私たちは思っています。

ですが、本当にそうなのでしょうか。

まだ名前を持たない「もの」は実在しているといえるのでしょうか。

ソシュールはこう考えました。

『名付けられることによって、はじめてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない』

「名前を持たないものは実在しない」というのは、すんなりとは受け入れられない考え方だと思います。

実在しなければ、どうやって名前を付けようと思うのだと。

ソシュールは羊の例を挙げています。

フランス語では羊は「ムートン」と言います。

一方、英語にはフランス語の「ムートン」に対応する名詞が二つあります。

一つは「シープ」で、白くてもこもこした生き物であり、もう一つは「マトン」で、食卓に出される羊肉のことです。

英語では生きた羊と食べる羊は別の「もの」ですが、フランス語では同一の語がこの二つの「もの」を含んでいます。

ですから厳密にいえば、フランス語の「ムートン」に相当する包括的な名称は英語には存在せず、逆に、「動物としての羊」や「食肉としての羊」だけを意味する語はフランス語には存在しない、ということになります。

この「ムートン」と「シープ」というのは語義としては大体同じですが、微妙に意味合いが異なっています。

微妙に意味合いが違うというのは、その語に含まれている意味の厚みや奥行きが違うということです。

この「語に含まれている意味の厚みや奥行き」のことをソシュールは「価値」と呼びました。

その「価値」は言語システムの中で、あることばと隣接するほかのことばとの「差異」によって規定されます。

例えば、「ムートン」と「シープ」、「ムートン」と「マトン」を比較してはじめて、その差異が浮かび上がって価値が決定されるのです。

ここで著者は卓抜な比喩を使っています。

「それは星座の見方を知らない人間には満天の星が「星」にしか見えず、天文に詳しい人には、空いっぱいに「熊」や「獅子」や「白鳥」や「さそり」が見えるという事態に似ています。

黒い空を背景にして散乱する無数の星のあいだのどこに切れ目を入れて、どの星とどの星を結ぶか、それは見る人の自由です。

そして、ある切れ目を入れて星をつないだ人は、そこにはっきり「もののかたち」を見出すことができます。

ですが、その見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人には全く見えないのです。」

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだという風に考えました。

言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、世界を切り分けることそのものなのです。

つまり、ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前が付くことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。

また、ことばを話したり、書いたりするときも、同様のことが起こります。

私たちはごく自然に「自分の心の中にある思い」をことばにして「表現する」という言い方をします。

しかし、それはソシュールによれば不正確なのです。

「自分の心の中にある思い」というようなものは、実はことばによって「表現された」後になってはじめて、私たちに知らされるのです。

私たちは何かを話したり、書いたり、表現した後に、自分が何を考えていたのかを知るのです。

それは口をつぐんだまま、心の中で独白する場合でも変わりません。独白においてさえ、私たちは日本語の語彙を用い、日本語の文法規則に従い、日本語で使われる言語音だけを用いて、「作文」しているからです。

私たちが「心」とか「内面」とか「意識」とか名付けているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえいえるかもしれません。

私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密にいえば「私」そのものではありません。

それは私が習得した言語規則であり、私が身に付けた語彙であり、私が聞きなれた言い回しであり、私が先ほど読んだ本の一部です。

「私が語る」とき、そのことばは国語の規則に縛られ、語彙に規定されているばかりか、そもそも「語られている内容」さえその大半は他人からのことばなのです。

そこで語られていることの「起源」はほとんどが「私の外部」にあるのです。

このようにソシュールは、言語という構造によって私たちは規定されている、ということを解明したのです。

そして、このソシュールに影響を受けた人たちのうち、現代にとって最も重要な人たちが、これから説明する構造主義四銃士と呼ばれる人たちです。