下流志向 内田樹

 本書は、なぜ若者たちは主体的に積極的に学びから逃走し、また労働から逃走するのか、それらから逃走するというのは帰結的に下流志向であるといえるが、なぜ下流志向の若者たちが増えたのか、どのような歴史的背景で生み出された現象なのか、それを考察した本です。

 「学びからの逃走」はその名の通り勉強をしなくなっている、授業を聞かなくなっているということです

ですが、実はそれだけではなく勉強を嫌悪しており、むしろ勉強をしないことを誇らしく思ったり、自己表現だと思ったりしていることを指します。

1995年の中学二年生の校外学習時間は世界の平均が3.0時間、日本は2.3時間と37か国中30位です。

1999年になると一気に下がって、中学二年生の校外学習時間は1.7時間で、37か国中35位まで落ちます。

2007年ぐらいの資料では、高校生の60%が校外学習時間ゼロと報告されています。

このように勉強をしなくなっていることは間違いないのですが、それだけでなく、積極的に勉強を拒否している、勉強をしないことに勤勉になっている、それが「学びからの逃走」という意味です。

 「労働からの逃走」も同じで、働かないというだけでなく、「働くと会社に縛られ自由がなくなる」と嫌悪しており、それがある意味で賢い生き方だと思っている。

著者は、この「学びからの逃走」と「労働からの逃走」は別々の文脈ではなく、同じ社会的背景があると考えています。

ではその社会的背景とは一体何なのでしょうか。

それは物心ついてから自分が「消費主体」として自己を確立している、ということです。

今までの子供たちは自分を「労働主体」として立ち上げていました。

子供たちが社会的承認を得るためには、皿洗いをしたり、掃除をしたり、父親の靴磨きをしたり、新聞をポストからとってきたりなど、社会的能力のない子供たちが家族という最小単位の社会で認められるためには、そういった家庭内労働を行ってきました。

そうすることで、子供たちは親からほめられ、認められ、家族という社会での地位を築いてきました。

労働を行い、他人に贈り物をして、それに対する感謝と社会的承認を得ることで、自己を確立してきました。

ところが、今の子供たちは違います。

現在では掃除とか洗濯とかそういった家事労働も残っていますが、その労働の中に、ある種の遊戯性が含まれているものや、達成感のあるものはほとんど残っていません。

草むしりや、打ち水など、子供が自然と触れ合い時間を忘れてやってしまうような労働はほとんど残っていないのです。

むしろ、子供が動き回ることが家庭内の秩序を乱すことであるから、じっとしていること、迷惑をかけないことが、家族という社会での最良の貢献になっています。

そう著者は考えます。

家庭内で子供が関われる生産活動はほとんど残っていないが、その一方で消費活動への参加は早い時期から促されています。

その消費活動の低年齢化の原因はいろいろありますが、誰でも納得のいく原因は超少子化ということです。

少子化の結果、夫婦に子供一人という場合「シックスポケッツ」と言って、両親とその祖父母の計6つのポケットからお小遣いが供給されます。

昔では兄弟姉妹が多かったから分散されたものが、今では一人っ子が多くお小遣いが集中されます。

まだ義務教育前であったとしても紙幣をすでに持っている子供さえいる状況です。

そして、コンビニなどでレジにお金を出せば、それが3歳の子供でも、40歳の大人でも、80歳の老人でも関係なく、同一の商品やサービスと交換できます。

お金さえ出せば、その相手の年齢や識見や社会的能力などの属人的要素とは関係なく交換という活動に参加できる。

子供でも取引はでき、社会的関係を築くことができます。

 

続きます。