下流志向 内田樹 ②
前回の続きです。
そこではお金の多寡だけが問題なのであって、誰がそれを使うかは誰も顧慮しない。
この時、社会的能力のほとんどない子供たちが、お小遣いを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずである。
子供でもお金さえあれば大人と同じことができ、サービスを受けることができる。
金の全能性の経験を持ってしまう。
そして、金をもって消費主体として現れる限り、買う主体の属人的性質については誰からも問われないということを早々と経験した子供たちは、それからあと、どのような場面でも、まず買い手として名乗り上げること、何よりもまず自らを消費主体として位置付ける方法を探すようになってしまう。
当然、学校でも子供たちは「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとしてしまう。
つまり「算数や社会を習うことに、一体どんな意味があるんですか?」という教育の買い手の立場になってしまうのです。
「これにはどんな意味があるのですか」と問う子供たちは、それに対して自分が納得できる答えがあるのならそれをやるし、納得できないのであればそれをやらない。
これは等価交換の原理です。
「私はこれだけの貨幣を差し出すために、どんな商品が得られるのですか」と言っているのです。
自分が出す貨幣と受けられる商品を等価交換にしたいと思っている。
でも学校では子供たちは教師に教育サービスの対価として貨幣を差し出すことはできません。
子供は学校で金を使ってやり取りするわけではありません。
では一体、子供たちは教育を通じて何を貨幣として出そうとしているのでしょう。
それは一つしかありません。「不快」です。
何十分の授業を黙って耐えて聞くという作業は子供たちにとって「苦役」です。
その苦役がもたらす「不快」を「貨幣」と読み替えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとします。
学校において子供たちが差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。
ですから、学校は子供たちにとって不快と教育サービスの等価交換の場となるわけです。
消費主体として自己を確立させた子供たちは、当然ここで値切り交渉を行うことになります。
「不快という貨幣」を最高の交換トレードで「教育商品」と交換しようとします。
できるだけ少ない金額で、できるだけ大きな利益を得ようとする。
子供たちは怠惰や不注意で勉強をしないのではなく、必死に努力して勉強をしないようにしているのです。
なぜかといういと、うっかり、受け取る教育サービスより大きな貨幣を差し出してしまうことは避けなければならないからです。
ですが、この「等価交換」という原理は、学びにおいて機能させてはいけない、と著者は言います。
等価交換の一番大きな特徴は、買い手はあたかも自分が買う商品の価値を熟知しているかのように振舞います。
私たちはその価値を知らない商品を買いません。
「腹を満たすことができる」とか「暑さを和らげることができる」とか、その価値を確認したうえで、その対価として金を払います。
商品が約束するサービスや機能が支払う価値があるか判断し、取引として適切であると判断すれば金を出して商品を手に入れます。
ですので、消費主体としての子供たちは「これを学ぶことで何の役に立つのか」と問うことになります。
そしてこの幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断します。
ですが、教育というのは等価交換的に「価値や有用性」を差し出すことができません。
貨幣を払えば、ぽんと「価値や有用性」という商品を差し出すことができないのです。
教育というのは、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が修了するまで、言うことができないものだからです。
なぜかというと、それら教育や学びというものは、何の役に立つのかまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、どんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、教育や学びが必要となるということだからです。
教育や学びによって、自分の価値判断がアップデートされること、それがそもそも教育や学びの本質だからです。
なので、子供たちは教育を受ける前に「どのような役に立つか」というのはわかるわけがなく、等価交換という論理では教育を語ってはいけないのです。
「労働からの逃走」というのも、本質的には「学びからの逃走」と同じロジックがあります。
それは本書をお読みください。