外国語を習得する効用

 特に英語が人気である。

私たちは中学、高校、大学と英語を勉強してきたが、一向に英語を話すことができない。

英語で外国人と会話をすることはできないし、一冊の本を読みとおすこともできない。

だが、グローバル化が急速に進展し、人や物、情報などが国境を越えて往来され、英語圏での就職先が増え、英語圏との国際競争が増えた。

そのためには、英語が必須である、という論理で人気なのだろう。

だが、ここには重大なものを見落としている、ということに人々は気づいていない。

この論理は経済の論理である。

自分の、また会社の利益を上げるということで迂回的に自分のために、英語を習得しなければならないと思っている。

そこには言語を習得する楽しさだとか、外国語を習得することによる知的な好奇心などを理由に、英語を勉強しようという発想はあまりない。

言語を道具としてしか考えていないといえる。

原始人が木の棒に石を括り付けてマンモスを捕らえたように、石を加工して釣り針を作り魚を釣り上げるように、現代の日本人は英語を使って自分の収入を捕らえようとしている。

確かに、英語を習得すれば競争力は高まるだろう。

それも大変重要なことなのは間違いないが、ただそれだけでは英語を習得するモチベーションは保たれないのではあるまいか。

それに英語を話せたからと言って、それだけで競争力が高まるわけではなく、そもそもどういう発想力があって、どういう戦略で国際的に戦うかということが大事ではないのだろうか。

もっと根本的なこと、例えば英語を習得することによって日本語を相対化し、自分がいかに日本語という言語に縛られているかがわかる、そういった自分を自由に開放できることがあることがわかる、そのような本質的な言語習得の喜びがモチベーションの源泉であり、それを伝えたほうがいいのではないだろうか。

文部科学省による「英語が使える日本人」の育成のための行動計画、というものがあるが、やはり英語を使えないと国際的競争に遅れるよ、ということを前提として言っている。

つまり、英語ができると、良い就職先があり、良い賃金を得られ、良い暮らしができますよ、と言っているのだ。

そういう傾向はあるだろうが、しかしそれは英語が話せるからというわけではなくて、私たちは言語を使って考えているのだから、英語が使えることによって考え方も変わるし、日本語そのものも変わってくるということ。

考え方が変わることによって、新たな発想ができたり、他人とは違うことができるということを教えるほうがいいのではないだろうか。

私たちが英語を学ぶのは自己表現をするためではなく、異質な外部のものを自己に取り入れて、自分の枠を拡大させるために学ぶのである(と、誰かが言ってた。本当にそうだと思う)

日本語だけではわからない概念や、世界の見方、そういった様々な異なったものを自分の中に取り入れることで、私たちは新しい考え方を習得することができ、視野を広げることができ、日本語の特殊なところや美しいところや変なところがわかるのである。

他者がいることによって相対的に自分がわかるように、外国語によって日本語が相対的にわかるようになるのだ。