ストレスとは、自分の思考が作り出したもの
仕事のストレスが多くて、とよく言われる。
満員電車に乗ってストレスがたまり、会社につけば上司にストレスがたまり、取引先の嫌味にストレスがたまり、家に帰れば家族にストレスがたまる。
現代にあってストレスを避けることは不可能のように思われる。
ところで、ストレスにも良い側面がある。
人にこの資格を必ず取る、と宣言して、その宣言を守るために必死で勉強をすることもあるだろう。
この場合は自分のやりたいこと、自由にできることに対して、自分でストレスをかけるのである。
ストレスを緊張感と置き換えてもいいかもしれない。
つまり、嫌なストレスとは、自分で決めたものではなく、他人、または環境からストレスが発生することだ。
意思決定がこちらにあるか、ないか、というのが非常に重要である。
この嫌なストレスを、人はどうにかして(あるいは自分は思考しない機械なんだ、と思うことによって)やり過ごそうとする。
ただ、それは一定の値を過ぎてしまうと、爆発して、どうしても心身に異常をきたしてしまう。
これを避けることはできないのであろうか?
ストレスが発生するメカニズムを見てみよう。
まず、他人から何かを言われたり、もしくは不必要に関係を避けられたりする。
それに対して、自分が「めちゃくちゃ怒鳴られたな」、「無視されてるな」と反応し考えることによって、ストレスが生じる。
こういう経験はないだろうか?
上司にこっぴどく怒鳴られた後の同僚との会話で「○○部長、あんな言い方をしなくてもいいじゃないか。腹立つわー」とあなたが言ったとする。
しかし、その同僚は「確かに言い方は悪いとは思う。でも、いつもはあんな言い方をしないし、奥さんと喧嘩でもしたんじゃないかな」
同僚は全然気にせず、仕事に戻って何事もなかったかのように、ミスをリカバリするため次のことを考えている。
これから言えることは、同じ外的要因があったとしても、それに反応してストレスになる人と、ストレスにならない人がいるということだ。
つまり、ストレスとは、反応して自分で考えて作ったものである。
身もふたもないことだ、と言われれば、そうかもしれない、と思う。
それはわかっているけど、そういう風に考えられないから困ってるんだと。
そう、理由はわかっているのだ。
感情に支配され、その感情が自分の思考を形作っていることを。
感情で動くのは愚かなことだ、と誰でもわかっている。
だから、感情にかかわらなければいい。
もちろん、怒鳴られたり、嫌味を言われて、腹が立ったり、イライラしたりする感情が、ないという人はいない。
そのような人は人間ではないと思う。
ただ、感情というのは砂嵐と同じようなものだ。
時間が経過すれば、いやでも過ぎ去っていく。
砂嵐を押し戻そうとする人はいないし、じっと過ぎるまで待つのが賢明だ。
感情もじっと待てばいい。
いや、感情と砂嵐の違うところは、感情は自分の思考によって自由に操作できるものなのだ。
何かのパワーで、砂嵐の進路を変更させるみたいに。
そのパワーとは、「今できる、最善の策は何だろうか?」である。
むかつく、と思っても、「今何をすれば一番いいのか?」を考えれば、思考はむかつくから徐々に離れていき、生産的な1歩を踏み出せる。
思考が感情を支配することができる。
ただ、そうしようと決めてもすぐに忘れてしまって、感情的になってしまうだろう。
それでもいい。
次に、感情に支配されそうになったら、これからどうするか、と考えるように決心すればいい。
遅かれ早かれ、それが習慣になって、遂には生産性の高い人間になっていく。
こういったことは、持って生まれたものでも、天性のものでもない。
多少はあるかもしれないが、トレーニング次第で私たちはより良く生きることができる。
トレーニング次第で何とでもなるなんて、すごく救われることではないだろうか?
自分次第なのだ。
ストレスにならないようにするのも、自分の思考が作り出すものであるのだ。