進化しすぎた脳 池谷裕二 ③

 では第3章「人間はあいまいな記憶しか持てない」です。

まずはこのリストを見てください。

「苦い、砂糖、クッキー、食べる、おいしい、心、タルト、チョコレート、パイ、味、マーマレード、甘酸っぱい、ヌガー、イチゴ、はちみつ、プリン」

これらの単語を少しばかり眺めてみてください。

 

さて、私たちは物事をよく忘れます。

どうでもいいことは憶えているのに、大事なことは忘れてしまうような気がします。

すっかりと記憶から消してしまうこともありますし、正確には思い出せないけどだいたいこんな感じといったあいまいな記憶だったりもします。

そのようなあいまいな記憶では現実に役に立たなかったりもします。

あまりにも忘れすぎてしまうので、写真を撮るように一度で正確にものを覚えられたらなと思った人は少なくないはずです。

実は、鳥は記憶力が凄く良い生き物で、あるものを記憶させるとほとんどコンピュータ並みに記憶することが実験で知られています。

鳥には、私たちが行うような物忘れはほとんどありません。

正確に確実に記憶に残しています。

しかし、このように完璧に記憶ができることのデメリットがあります。

食物を隠している巣を少し人間の手で変えて細工をすると、鳥はこの巣を見つけることができなくなってしまいます。

あまりにも完璧に巣の場所や形を記憶しているために、少し変形してしまうとそれが同じものと判別できなく、その巣のあたりをぐるぐると探し回ってしまうのです。

 

 さて、ここで先ほどのリストを思い出してください。

単語をすべて言うことはできるでしょうか。

普通は無理だと思いますが、ではこれならどうでしょうか。

「堅い、味、甘い」

この3つの単語のうち、どの単語が入っていたかならわかるのではないでしょうか。

あのリストの中に入っていた単語はどれでしょう?

すぐに答えられた人もいるかもしれません。

多分これだな、となんとなくわかる人もいるでしょう。

おそらく、ほとんどの人は「甘い」を選んだのではないでしょうか。

本書でもこの実験がなされたのですが、高校生は「甘い」を選んでいました。

ですが、「甘い」はあのリストに含まれていなくて、実際は「味」が含まれているのです。

この実験は要するにどういうことかと言うと、私たちの記憶は鳥のように完璧に記憶するということは難しく、共通項を見つけ出して覚えてしまう、あいまいな記憶を持ってしまうということです。

先ほどのリストをもう一度見てみます。

「苦い、砂糖、クッキー、食べる、おいしい、心、タルト、チョコレート、パイ、味、マーマレード、甘酸っぱい、ヌガー、イチゴ、はちみつ、プリン」

リストのほとんどの共通項は「甘い」であり、それ故に「堅い、味、甘い」のどれがリストに含まれていたかと言われれば、「甘い」と錯覚してしまうのです。

これは一見、私たちの記憶はいい加減なものだと思われますが、しかしこのいい加減であいまいな記憶こそが、人間の臨機応変さと適応力の源になっています。

先ほどの鳥の例でいうと、鳥は巣が少し変化していると、もうそれが自分の巣と気づきませんが、人間はあいまいな記憶のおかげで巣が多少変化したところで、前と同じ巣だと考えることができます。

私たちには共通のルールを見つけ出す機能が備わっています。

これを「汎化」と言います。

「汎化」とはつまり物事を抽象化して本質を見抜くということです。

抽象化できるからこそ、変形した巣でも前と同じ巣と見分けることができるし、新しい状況や環境でも共通のルールを知っているので、それに適応することができるのです。

また、私たちはコンピュータのように入力したらすぐに完璧な出力が出てくるわけではないですが、「汎化」した本質を組み合わせることによってクリエイティブな思考ができます。

そのような抽象的な思考ができる主な要因は、人間には言語があるからなのです。

言語があるから抽象的な思考ができる。

物理学会賞を受賞するほど優秀であった物理学者が、ある日ウェルニッケ失語症という病気になりました。

脳の中のウェルニッケ野という場所が駄目になって、言語をうまく扱うことができなくなりました。

特に抽象的なことは全然駄目になりました。

難解な物理学のことはもちろん、「何を飲みたいですか」と聞いても答えられなくなってしまった。

何を飲むか、という簡単な抽象的なことも答えられなくなりましたが、その代わりに「水を飲みたいですか」と聞けば、きちんと答えられる。

具体的に「水を」と聞けば答えられるが、抽象的に「何を」と聞けば答えられない。

これからも言語があるから抽象化思考ができるとわかります。

 そして何かをしようとする「意識」とか、こわい、悲しい、楽しいといった「心」も多くは言語から生まれる、と著者は言います。

私たちは普通、「悲しい」とか「恐い」とか「楽しい」という心の動きを、まず先にそういった感情が先にあってそれを「恐い」と名付けたと思っています。

何か対象があって、それから名前を付けると考えています。

ですが、ほとんどは逆で、「恐い」という名前を付けるから、私たちはそのような感情が沸き起こるのです。

恐怖という感情と関係のある脳の場所は扁桃体と言われているところです。

扁桃体が活動すれば、私たちが恐怖を感じた時に取る行動、対象物から逃げるとか、近寄らないとか、そういった行動が起こります。

ですが、この扁桃体には恐怖という感情自体は含まれていません。

感情は入っていませんが、恐怖を感じた時に起こる行動は入っています。

つまり、例えば森の中でクマに出会った時、扁桃体だけが活動したならば、刺激しないようにゆっくりと後ずさりして、隙があればダッシュで逃げるという行動がとれます。

ですが、扁桃体だけではクマに出会ったことが怖いとは感じません。

感じませんが、本能で逃げることはできます。

ではその恐怖という感情はどこにあるのでしょうか。

それは脳の大脳皮質にあるようです。

つまり、扁桃体が活動して、その情報が大脳皮質に送られると、恐怖という感情が私たちに生まれるのです。

先ほどの例えのように、森の中でクマに出会ったら脳の扁桃体が活動して逃げるという行動をとります。

そして、その後に「副産物」として恐怖という感情が沸き起こります。

扁桃体が活動することと、大脳皮質に情報が送られて恐怖という感情が発生するのがほとんど同時で人間には誤差が判別できないので、恐怖という感情が起こったから逃げると勘違いしますが、実際は先に行動があり、それから感情があります。

ですので、クマが出てきて逃げるという本能は感情と何の関係もない、ということになります。

では、なぜ人間には感情があるのでしょうか。

言い換えると、心は何のためにあるのでしょうか。

扁桃体が活動して本能が働けば、危険なものを避けるという生物にとって死活的な問題は避けられます。

本能があれば生物として種を存続させることができます。

ですが、物事を抽象化して本質を見抜き、新しい状況や新しい環境に即座に適応するためには「心」が必要になります。

私たちの世界は目まぐるしく変化し、新しいシステムが生まれ、新しい物事に出くわしますが、それに上手く対応し、適応するためには「心」が必要なのです。

「言葉」と同じで「心」は、物事を「汎化」するために重要なファクターだからです。

進化しすぎた脳 ②

 第二章、「人間は脳の解釈から逃れられない」です。

さて、私たちは普通、世界という確固としたものがあって、それを解釈したり研究したりしている、と思っています。

人間とは関係なく、客観的な、それ自身で自立した世界というものが先にあって、私たちはそのようなものを見ていると思っています。

そういった観念から世界を研究して、「万有引力の法則」や「地動説」など普遍的な法則が出てきたのだと考えます。

ですが、著者は本当にそうなのだろうかと問いを投げかけます。

脳を研究すればするほど、私たちが見ている世界は私たちと関係なく自存しているわけでなく、人間の脳が解釈している世界を私たちは見ているのだ、と著者は言います。

『まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、という風に世の中の多くの人は思っているけど、ほんとは全く逆で、生物に目という臓器ができて、そして、進化の過程で人間のこの目が出来上がって、そして宇宙空間にびゅんびゅんと飛んでいる光子(フォトン)をその目で受け取り、その情報を解析して認識できて、そして解釈できるようになって、はじめて世界が生まれたんじゃないか。

 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界として初めて意味を持った。』

 要するに、客観的な世界があるのではなくて、私たちの脳によって世界は作られている、ということです。

世界は主観的なものである、ということです。

世界は人間の脳が解釈したものであり、脳の構造の限界の産物であり、脳が作り出したものです。

例えば人間は赤・緑・青の3原色で色を識別しています。

その他の色、黒や黄色や紫色などは、その3原色を絵の具のように組み合わせることによって、私たちは目にすることができます。

ですが、虫は4原色で色を識別できます。

赤・緑・青・紫外線の4原色です。

紫外線があることによって、人間と同じものを見ていてもそれは全く同じものにはなりません。

ある蝶々の黄色い羽根を紫外線カメラで見ると黒っぽく見えることがあります。

紫外線によって色の配色は変化します。

ですが、それは蝶々に紫外線を通すカメラを使って、人間の脳で見たからそうなるのであって、本当に虫から見たらその蝶々の羽が黒っぽく見えているのかはわかりません。

最終的には人間の脳で解釈しているからです。

また、そのような無時間的な話だけでなく、動きといった時間的なことでも私たちは脳の解釈から逃れられません。

著者はネイチャーという雑誌に掲載された論文を紹介しています。

その論文で行った実験は凄く単純です。

参加者に正方形から長方形に一瞬で切り替わる動画を見せます。

パソコンからスクリーンに映して、正方形と長方形をぱっと入れ替えるわけです。

スライドを切り替えるわけですから、そこにはほとんど時間がありません。

ですが、それを見せられた被験者は、正方形が徐々に長方形に変化したように感じられると言います。

正方形が徐々に伸びてきて、長方形になったようにです。

実際には動いてはいないのに、あたかも動いたように見えるのです。

例えるならぱらぱら漫画のようなものです。

一つ一つは違うもので、連続性もないものです。

ですが、それをぱらぱらとめくると人が動き、風景が移動し、会話が成り立ちます。

この時、人間は一瞬で切り替わったものを、連続性のある、意味のあるものとして錯覚してしまいます。

論文では、この錯覚しているとき、実際に動きを感じる脳の部位が活動していると伝えています。

それは本当は動きがなく、一つのものから別のものに切り替わっただけであるのに、私たちの脳は動きがあると錯覚して、そして動きを感じる脳の部位が働いているのです。

つまり、脳が動きを感じたら、それが本当は静止していようが何していようが動きそのものと解釈してしまいます。

このように、外の世界がどのようなものであろうと、様々なものがどろどろと絡まりあったマグマのような世界であっても、私たちの脳がいったん解釈すれば外の世界は解釈したもの以外の何物でもない、ということになります。

『世界は外にあるんじゃなくて、あくまでも脳の中で作られるわけ』なのです。

 

進化しすぎた脳 池谷裕二 ①

脳の研究者の本を読んでいると、それは脳の構造だけにはとどまらず、意識とは何か、見ているとは本当に見ているといえるのか、心とは何なのか、といった心理学的、哲学的な考察まで思考が進んでいきます。

それは脳というものが視覚や意識や心や言葉などといったものと密接に関係しているからです。

その脳の研究が現代思想を裏書きして証明したり、時には現代思想のはるか先まで思考が飛んでいくことがあります。

哲学が科学の問いを導き、科学が哲学を誘惑します。

本書はそのような哲学と科学が融合した本です。

この本は著者が慶應義塾ニューヨーク学院高等部で行った講義が元になっています。

記憶や脳のメカニズムなど、著者が専門としている大脳生理学の分野にとどまらず、人間とコンピュータとの違いは何か、意識とは何か、心理学、哲学的なことまで幅広く、脳から考えた知見を披露しています。

私たちはなぜすぐに忘れてしまうのか、心はどのように発生するのか、言葉を獲得したことで人間はどのように発達したか、そのようなわくわくするような講義を追体験することができます。

 第一章の主題は「人間は脳の力を使いこなせていない。

第二章は「人間は脳の解釈から逃れられない」

第三章は「人間はあいまいな記憶しか持てない」

第四章は「人間は進化のプロセスを進化させる」

それぞれ解説したいと思います。

 では、第一章、「人間は脳の力を使いこなせていない」です。

よく「人間は脳の10%の力しか使いこなせていない」、なんて言われます。

これは私たちにほとんど無限の可能性を秘めてることを示唆してきました。

まだ10%しか使っていないのだから、私たちはもっと賢く、より知的になれるはずだという風にです。

しかし、10%かはともかく、人間の脳はあまりにも進化しすぎていて、それを上手く使いこなせていないようです。

『ある統計によると、頭蓋骨の中の95%が空洞という重症の水頭症でも、ひどい障害があらわれる人はわずか10%に満たなくて、50%の人はIQが100を超えているという』

つまり、脳の95%が損失していたとしても、残りの5%でほとんどの水頭症の人は健常者と同じ生活ができるということです。

ということは、私たちが通常生活する分には、こんなに脳の大きさが要らないと考えられます。

中にはIQが126あって、「大学の数学科で主席を取るほどの人もいた」そうです。

 では、なぜ脳の大部分の力を使いこなせないのでしょうか。

何が原因で、私たちは脳の可能性に蓋をしているのでしょうか。

それは身体が原因だと、著者は言います。

『進化の教科書を読むと、環境に合わせて動物は進化してきた、と書いてあるけど、これはあくまでも体の話。脳に関しては、環境に適応する以上に進化してしまっていて、それ故に、全能力は使いこなされていない、と僕は考えている。能力のリミッターは脳ではなく体というわけだ』

脳というのは場所によって役割が異なっています。

視覚を処理する場所、音を聞く場所、指で触れて感知する場所など、役割によって対応する空間的部分が違っています。

このように役割によって分かれているのは人間の中では脳だけであって、その他の臓器は部分に分かれていません。

心臓や肝臓や肺などは「特定のこれには、この部位を使う」という風に分かれているわけでなく、どのようなものでも全体として処理しています。

しかし脳は違います。

脳は視覚の処理は後ろのあたり、聴覚は横のあたりで処理する、と分けられています。

さらにその中でもまた細分化されています。

聴覚でいえば、「500ヘルツの音に反応する場所はここ、1000ヘルツに反応する場所はここ、1500ヘルツに反応する場所はここ」、という風に、周波数によっても活動する脳の部分が異なっているのです。

ということはつまり、ピアノを習ったり音楽を聴いたり、聴覚を刺激すればその聴覚の脳の部分が、視覚を刺激すれば脳の視覚の部分が発達するということです。

実際、ピアニストは指に関する脳の部位が発達しています。

ここで、著者は興味深い例を書いています。

『生まれながらにして指がつながったままの人、例えば人差し指と中指がつながったまま生まれる人が、たまにいる。指が4本。そういう人の脳を調べてみると、5本目に対応する場所がないんだ。わかる? これ、取っても重要なことを意味してるよね。つまり、人間の身体には指が5本備わっていることを脳があらかじめ知っているわけじゃなくて、生まれてみて指が5本あったから5本に対応する脳地図ができたってことだ。ところが、生まれた時に4本しかなかったら、脳には4本に対応する神経しか形成されない。』

 要するに、脳の発達は最初から決まっているわけでなく、多くの部分が後天的なのです。

指が4本しかなければ4本分の神経しか形成されない。

逆に言うと20本あれば、20本分の神経が形成されるということです。

このように脳の発達、能力の上昇には、身体が密接に関係しているのです。

しかし、私たちには手が5本ずつ、足が2本、目は2対、聴覚は20ヘルツから20000ヘルツまでしか聞こえなかったりなど、身体によって制限されています。

身体によって、脳の能力を最大限生かし切れていないのです。

バカの壁 養老孟司 ④

 次に社会の問題である「共同体」です。

著者は書いています。

「昨今は不況のせいで、どこの企業でもリストラが行われている。しかし、本当の共同体ならば、リストラということは許されないはずなのです。リストラは共同体からの排除になるのですから、よほどのことがないとやってはいけないことだった。

本来の共同体ならば、ワークシェアリングというのが正しいやり方であって、リストラは昔でいうところの「村八分」。だから、それを平気でやり始めているあたりからも、企業という共同体がいかに壊れているか、ということがわかる。」

 現在は個人化しています。

隣近所の住民とは付き合いがなく、私は自分がやりたいことをやるのだから、周りは邪魔しないでくれ、という感情になっている。

個人化しているというのは、言ってみれば、個人は自己責任でやるということ、もし上手くいけば利益は個人一人のものになるが、失敗すればそれは自己責任だから文句を言う筋合いはない、という論理なのです。

このような個人化は格差を増長することになります。

富める人はますます富み、貧しい人はますます貧しくなる。

それも当然のことなのです。

利益を上げた人は、その利益を使ってさらに伸ばすことができますが、失敗した人はそれを支えるセーフティネットがないのですから。

共同体というのは、その共同体の成員を助け合いながら、共同体自体を維持するのが目的です。

その成員の中にはお金を稼ぐことが得意な人もいれば、人をまとめ上げることが得意な人もいますし、また逆に毎日がかつかつで生きている人もいます。

様々な能力、特性を持った人がいます。

そして、その共同体の成員は自分ができることを他人にし、自分ができないことは他人にやってもらうことで、その共同体を維持しようとします。

共同体では自己責任と言う個人での問題なのではなく、チームでの問題なのです。

ですので、何かに失敗しても共同体であれば支えてくれますが、それがなくなった現代のような個人化であれば自力で這い上がるしかありません。

しかし、それは容易ではありません。

一度はしごからかけずり落ちると、そのはしごは外されもう上ることが困難になるのです。

そして格差社会で落ちた人も、その個人化の論理で生きていることで、格差社会の発展を増長する一端を担っているのです。

自分が陥ったシステムに、自分自身が加担しているのです。

 三つめは脳の問題である無意識です。

フロイトが無意識を発見した、という話の後、著者はこう書いています。

「もともと無意識というのは、発見されるものではなくて日常存在しているものです。なぜならば、我々は、毎日寝ています。寝ている間は誰もが無意識に近い状態です。夢を見ているといっても、覚醒しているときとは全く異なる、低下した意識ですから。

 この寝ている時間というのを、今の人はおそらく人生から外して考えていると思われます。脳によってつくられた年に生活している、というのもその理由の一つでしょう。

 若い人のライフスタイルを見ていると顕著です。彼らが主な客層であるコンビニは二十四時間営業。草木が眠る時間でも、コンビニだけは煌々と明かりをともし、若い人たちがたむろしている。要するに、彼らにとっては寝ている時間は存在していない時間であることの象徴です。

 なぜ寝ている時間がないのか。寝ている暇をもったいないと思うのか。それは、無意識を人生の中から除外してしまっているからです。意識が中心になっている証拠なのです。」

 私たちは意識している時間=起きている時間だけを生きている時間ととらえる傾向にあります。

そこには無意識の時間=寝ている時間は無駄である、という考えがあります。

しかし、本当に無駄なのかと著者は問います。

本当は無意識と意識は密接に関係しあっているのではないか、と。

悩み、苦しみ、煩悶しているとき、私たちは意識の力でそれらを取り除こうとします。

なにかはっきりとしない、どっちつかずのことは気持ち悪くなって、意識の力で強引に結論を出したがります。

ですが、それらは失敗するか、あるいは新しい悩みを引き起こすことに多くの場合なってしまいます。

なぜなら、その悩み、苦しみ、煩悶というのは答えがあるというものではなく、その問いを考え続けることで、いつの間にかなくなるものだからです。

悩みや苦しみは事後的に、後になって初めてなくなっていた、と気づくものなのです。

しかし、意識だけに集中している人は、悩みを取り除くため安易に宗教に走ったり、確固とした答えを出したいがため、自分の都合の悪いところは意識的に見ないようにして、ゆがんだ結論を出してしまいます。

そこには意識を絶対視してしまう傾向があります。

ですが、私たちには無意識があります。

無意識を意識するというのは矛盾した無理なことですが、意識が絶対ではない、それが唯一ではないと意識することが重要なのではないか、と著者は問いかけます。

 このように、「身体と脳」、「個人化と共同体」、「意識と無意識」は、それぞれ関連しあっているのです。

けっしてどちらか一方だけでは上手くゆきません。

バランスが大事なのです。

こういった「バカの壁」を通じて、著者は私たちに問いを投げかけています。

 

 

バカの壁 養老孟司 ③

 このような「バカの壁」と密接に関係しており、そもそもその根本原因となっているのが「無意識」、「身体」、「共同体」である、と著者は言います。

『「意識と無意識」は脳の中の問題、「身体と脳」は個体の問題、そして「共同体」は社会の問題です。

現代の日本では、それぞれにおいてよく似た現象が起きています。その現象を意識しない、または忘れてしまっていること自体が、日本人の抱えている問題ではないか、と考えられるのです』

「無意識」、「身体」、「共同体」について三つとも同じような現象が起きているが、それらの重要性を忘れていることが現代の問題だと著者は言います。

一つ一つ見てみましょう。

まずは個体としての「身体」の問題です。

私たちは身体を一種の鎖のように考えています。

「身体の制限がなければ、私はもっと何でもできる」と考えています。

それはある程度は本当でしょう。

車を使えば、二本の足で歩くより短時間で遠くまで行ける。

携帯電話があれば、近くまで行かなくても話し合うことができる。

インターネットは脳化社会の典型です。

人間の思考は自分の身体ではできないことを考え、身体の代わりになるものを発明していきました。

そうなると、当然、自分の身体を忘れてしまうことになります。

著者は長年、地下鉄サリン事件という大事件について、どう考えるべきか整理がつかなかった、と言います。

明らかにインチキな教祖に、なぜ信者は惹かれていったのかと。

それから、竹岡俊樹氏の『「オウム真理教事件」完全読解』を読んでようやく納得ができたと言います。

『彼は、信者や元信者らの修行や「イニシエーション」についての体験談を丹念に読みこみました。その結果、「彼ら(信者)の確信は、麻原が協議として述べている神秘体験を彼らがそのままに追体験できることからきている」と述べています。つまり、麻原は、ヨガの修行だけをある程度きちんとやってきた、だからこそ修行によって弟子たちの身体に起こる現象について「予言」もできたし、ある種の「神秘体験」を追体験させることができたのだ』

地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教も、現代人が身体を忘れてしまったことが大きな原因なのだ、ということなのです。

そもそも脳も身体の一部です。

その身体の一部である脳だけを積極的に発展させ、その他の身体が忘れられていることが問題なのです。

私たちが思考するときは、身体を使って考えています。

目で見たり、何かを触ったり、身体を動かして考えています。

なかなか答えが出ない問題であれば、歩いて考えたり、声に出してみたり、紙に書きだして考えたりすると思います。

何をするにしても身体と脳は関連しあっています。

インプットするときは身体を使って行いますし、アウトプットをするときは身体を使ってしか行えません。

しかし、私たちはその身体を疎かにしているのかもしれません。

身体を疎かにして脳だけで考えているから、偏った考えをしたり、上手く知性が働かないのかもしれません。

もっと身体を使って、五感をフルに活用すれば、「バカの壁」を避けることができるかもしれません。

人工知能に人間とそっくり同じ知能を植え付けることができるか、という問いがあります。

ある脳科学者はこう答えました。

「できるかもしれない。ただし、人間と同じ身体が必要だ」

人工知能なら問題に対する答えを即座に出したり、自ら思考して学習したりすることはできるでしょう。

しかし一見ほとんど関係のないものを組み合わせてアイデアをだし、それがどのように有効なのかと説得力を持って伝えること、またそもそもの本質的な問いを立てるというようなことは人工知能ではできなく、身体があるからこそ私たちに行えるものなのです。

バカの壁 養老孟司 ②

 私たちは絶えず変化します。

情報を取得し、学び、身体を動かし、嫌な感情がわき、良い感情がわき、苦手だった人が好きになることもあるでしょう。

昨日できなかったことが、今日できるようになったりします。

そもそも私たちは変化するということがなければ、働いたり、勉強をしたりしないですし、生きることができなくなるでしょう。

それは未来があるというだけではなくて、変化するということ自体が私たちにとって楽しいものだからです。

人の細胞も約7年でほとんど入れ替わると言われてます。

私たちは絶えず変化しているのですが、しかし実際には私たちはそのように思っていません。

自分には個性があるというのも、変化しない私と考える一つの証拠である、と著者は言います。

「一般に、情報は日々刻刻変化し続け、それを受け止める人間のほうは変化しない、と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない。自分にはいつも個性がある、という考え方です。しかし、これもまた、実はあべこべの話です。」

 本当は情報は変わらないが、人間は変わっていくのです。

本に書いてある情報、新聞に書いてある情報、テレビで流される情報、これらは変わりません。

それらを受け止め、考えることによって、自分は変わっていきます。

テレビでこの前言ってたことが訂正されたりするじゃないか、と言われるかもしれませんが、それは情報が変わったのではなく、その情報を発信する人間が変わったのです。

ついこの間までダイエットをすると決意していたのに、もうラーメンを食べに行っている。

それはダイエットという情報が変わったのではなく、人間がダイエットをどう扱うか、ということが変わっただけなのです。

そして、私には個性があるというのは、私には変わらない個性があるという風に私たちは使っています。

個性というものを永遠不滅で、生まれた時からすでにあり、手放そうとしても手放せないものと考えています。

やっかいなことに、その個性を伸ばせと教育者たちが言っています。

個性を伸ばすことが、真の教育であり、重要なことなのだと。

著者は言います。

『今の若い人を見ていて、つくづくかわいそうだなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理のない話。

 要するに「求められる個性」を発揮しろと言う矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要ないというのはずいぶんおかしな話です。』

組織が要求する個性を発揮しろというのは、どのような会社でも、どのような団体でも言われています。

彼らは変革をしたいのではなく、今ある枠組み内でできるだけよくしたいと思っています。

組織や会社の慣習や常識を打ち破り、新たに成長するためにあるわけでなく、定められた箱の中でより利益を得たいと思っています。

むしろ組織の慣習や常識など枠を打ち破ると、空気の読めないやつとか、人を尊重できないやつなどと言われます。

しかしそれはもはや個性ではなく、人を常識に押しとどめ、慣習を守らせ、彼らのやりたいように動いてくれる人を求めているのです。

個性というものは私たちが変化する運動のなかにこそ出てくるものです。

個性とは静止した確固たるもの、という単純なものではありません。

変化と変化の差異に、その差異とまた次の変化の差異との落差の内に出てくるものです。

ですので、「個性を伸ばそう」とか「個性を尊重しよう」とかいう風潮は、私の個性はこれだ、と指し示せるものだと思っています。

そのように指示せるものとは、本当は周りにこう思ってほしいと、私が思っている個性なのです。

個性とは無意識であり、にじみ出るものなのです。

著者は言います。

『だから、若い人には個性的であれなんていう風に言わないで、人の気持ちがわかるようになれと言うべきだというのです。

 むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事なのです。みんなと画一化することを気にしなくていい。』

 このような情報は変化して、人間は不変であるという「あべこべ」、これも「バカの壁」の一つです。

 

 

バカの壁 養老孟司

 大ベストセラーであり、発売された2003年の流行語にもなった「バカの壁」を今回は解説したいと思います。

まず、「バカの壁」とはどういう意味なのでしょうか。

おそらく多くの人が「バカの壁」から最初に受ける印象は、世の中には「賢い人」と「バカの人」がいて、その「バカの人」が陥る思考を「バカの壁」と言っているんじゃないか、と思ってしまうのではないでしょうか。

つまり、「バカの人」と「賢い人」を隔てている壁を「バカの壁」だと考えてしまうかもしれません。

ある意味そうなのですが、しかしその考えの中には、不動の「バカの人」と不動の「賢い人」がいて、「こうこうこういう考えを持つ奴はバカだ」という固定的な考えが潜んでいます。

「賢い人」はその壁にぶち当たらないが、「バカの人」はぶち当たる。

「バカの人」はその壁にぶち当たるからバカなのであって、その壁はどのような壁なのかがこの本には書いてある、と思うかもしれません。

ですが、本書をしっかりと読めば、そうでないことは明白です。

そのような単純なことではないのです。

バカの壁」について、著者の言葉を引用します。

「結局我々は自分の脳に入ることしか理解できない。つまり、学問が最終的に突き当たる壁は自分の脳だ。そういうつもりで述べたことです」とあります。

つまり、自分は理解できることしか理解できない。

ただ、人間は理解できないことを理解しようと望むことはできますが、それは努力が必要で時間のかかることですから、そのような困難な自分を作り変えるようなことはあまりしない。

しかも、理解できないことを理解しようと望んでいる人であっても、環境や常識などが私たちの思考を制限し、支配し、理解したつもりになってしまうことがある。

脳の解釈によって、理解できたりできなかったりする。

そのようなことを言います。

私たちはどれだけ努力しても、どれだけそうならないように気を付けても、どうしても「バカの壁」にぶつかってしまうことは避けられないのです。

なぜかというと、それは私たちの常識や環境や無意識がそうさせてしまうからなのです。

常識や環境はともかく、無意識を意識するというのはできないことです。

ですので、私たちが考えていることや感じていることは、「正しいことなのか」、「違う視点では考えられないか」、「そう考えることで私は一体何を自分に思い込ませたがっているのか」を、常に考え直さなければなりません。

ここまでの話は抽象的でわかりづらいかもしれませんが、本書で著者は様々な「バカの壁」の具体例を挙げています。

その一つに、妊娠から出産までのドキュメンタリーを大学生に見せた授業があります。

そのビデオを見た大学生は、男子と女子で反応がかなりはっきりと違うと書いています。

『ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことはすでに保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対と言ってもよいくらいの違いが出てきたのです。これは一体どういうことなのでしょうか。(略)その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、『出産』ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見ができなかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。』

 男子は同じものを見ていても、女子とは受け取り方が違っています。

ドキュメンタリー番組を、自分が知っていることという枠組みに無理やり押し込み、定型化しようとしました。

「そんなことは知っているし、今さら見せられても」というのが男子の率直な感想なのでしょう。

しかし、保険の授業で習ったことと、実際に妊娠から出産までの映像を見ることは、本当は情報量が全然違うはずです。

野球を本で読んで学習するのと、実際に打席に立ってスイングをするのでは全然違うようにです。

「(男子は)積極的に発見をしようとしなかった」と著者は書いてますが、これは本当にその通りで、自分のその時の感情、関心などによって、むしろ発見しないように努めます。

怠惰のせいで無知なのではなく、勤勉の結果の無知なのです。

これは私たちにも無意識のうちに起こっています。

見たくないものを見ないように無意識のうちに努力する。

それは「バカの壁」なのです。