バカの壁 養老孟司 ②
私たちは絶えず変化します。
情報を取得し、学び、身体を動かし、嫌な感情がわき、良い感情がわき、苦手だった人が好きになることもあるでしょう。
昨日できなかったことが、今日できるようになったりします。
そもそも私たちは変化するということがなければ、働いたり、勉強をしたりしないですし、生きることができなくなるでしょう。
それは未来があるというだけではなくて、変化するということ自体が私たちにとって楽しいものだからです。
人の細胞も約7年でほとんど入れ替わると言われてます。
私たちは絶えず変化しているのですが、しかし実際には私たちはそのように思っていません。
自分には個性があるというのも、変化しない私と考える一つの証拠である、と著者は言います。
「一般に、情報は日々刻刻変化し続け、それを受け止める人間のほうは変化しない、と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない。自分にはいつも個性がある、という考え方です。しかし、これもまた、実はあべこべの話です。」
本当は情報は変わらないが、人間は変わっていくのです。
本に書いてある情報、新聞に書いてある情報、テレビで流される情報、これらは変わりません。
それらを受け止め、考えることによって、自分は変わっていきます。
テレビでこの前言ってたことが訂正されたりするじゃないか、と言われるかもしれませんが、それは情報が変わったのではなく、その情報を発信する人間が変わったのです。
ついこの間までダイエットをすると決意していたのに、もうラーメンを食べに行っている。
それはダイエットという情報が変わったのではなく、人間がダイエットをどう扱うか、ということが変わっただけなのです。
そして、私には個性があるというのは、私には変わらない個性があるという風に私たちは使っています。
個性というものを永遠不滅で、生まれた時からすでにあり、手放そうとしても手放せないものと考えています。
やっかいなことに、その個性を伸ばせと教育者たちが言っています。
個性を伸ばすことが、真の教育であり、重要なことなのだと。
著者は言います。
『今の若い人を見ていて、つくづくかわいそうだなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理のない話。
要するに「求められる個性」を発揮しろと言う矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要ないというのはずいぶんおかしな話です。』
組織が要求する個性を発揮しろというのは、どのような会社でも、どのような団体でも言われています。
彼らは変革をしたいのではなく、今ある枠組み内でできるだけよくしたいと思っています。
組織や会社の慣習や常識を打ち破り、新たに成長するためにあるわけでなく、定められた箱の中でより利益を得たいと思っています。
むしろ組織の慣習や常識など枠を打ち破ると、空気の読めないやつとか、人を尊重できないやつなどと言われます。
しかしそれはもはや個性ではなく、人を常識に押しとどめ、慣習を守らせ、彼らのやりたいように動いてくれる人を求めているのです。
個性というものは私たちが変化する運動のなかにこそ出てくるものです。
個性とは静止した確固たるもの、という単純なものではありません。
変化と変化の差異に、その差異とまた次の変化の差異との落差の内に出てくるものです。
ですので、「個性を伸ばそう」とか「個性を尊重しよう」とかいう風潮は、私の個性はこれだ、と指し示せるものだと思っています。
そのように指示せるものとは、本当は周りにこう思ってほしいと、私が思っている個性なのです。
個性とは無意識であり、にじみ出るものなのです。
著者は言います。
『だから、若い人には個性的であれなんていう風に言わないで、人の気持ちがわかるようになれと言うべきだというのです。
むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事なのです。みんなと画一化することを気にしなくていい。』
このような情報は変化して、人間は不変であるという「あべこべ」、これも「バカの壁」の一つです。