効率的な本

 私たちは何のために勉強をするのでしょうか?

もちろん人それぞれでだと思います。

実生活に役たてたいという人もいるし、資格マニアのように勉強それ自体が好きな人もいるし、仕事で仕方なく勉強している人もいるでしょう。

ただ、多くの人は、今の混乱した世の中を解決するために、知的な武器がほしいという思いがあるのではないでしょうか?

平たく言えば、より良く生きるために、ということになります。

そこで、多くの人は新刊書を探し求めることになりますが、残念ながら新刊書は全てとは言いませんが、世の中を解決したり、より良く生きるための材料とするには、回り道となってしまいます。

新刊書よりもっと、効率的に良い本があります。

それが古典です。

ここで言う古典とは、大昔に書かれたという意味ではなく、実績が確認されたもの、または一次文献の本のことです。

ですので、例えば5年前に発表された本であっても、それを満たしていれば古典と言えます。

まあ、たいていは何十年、何百年前の本になると思います。

では、新刊書がなぜ回り道になって、古典がなぜ効率が良いのでしょうか?

まず、新刊書の多くは古典の解説書であるということです。

一見して解説書のようには見えないものも多数ありますが、その新刊書の考えは何かの古典から参照して平易に、現代に即して解説しているものです。

古典からの参照だけでなく、解説書から参照した解説書というのもあるでしょう。

もちろん、それ自体は悪いことではなく、とても有益なことです。

そして、その解説書の中にも古典と言われるのはたくさんあるので、それらを読み漁ることはぜひするべきでしょう。

ですが、多くの新刊書、古典になっていない解説書は、古典を参照して、そこから私たちに即した具体的なことだけしかほとんど書かれていないのです。

具体的なことの何が悪いのかというと、それは個別的なこと、主観的なことであって、その人にとっては当てはまるが、読者には当てはまらないことや、その時には上手くいったが、何か月もするとすぐに古くなることが書かれているからです。

ですので、新刊書の多くは長く残らず、すぐに話題にも上らなくります。

具体的なことは、ほとんど私たちにとって使えないものなのです。

これを裏返しますと、抽象的なこと、客観的なことは、多くの人に当てはまります。

現代に生きている私たちの状況に応用がきくということです。

古典や、一次文献は、この抽象的なことがらをもっぱら書いています。

抽象的な事柄をこれでもかと、絵の具を何重にも塗り足していくように書いていくので、確かに古典を読むのに苦労はしますが、この古典を身に付けると、抽象的な事柄を身に付ける、つまり基本的な考え方を身に付けることになるので、そこから応用力が効き、いろんな物事に適用できるようになります。

よくどんな話題にも的確に意見を述べる人がいますが、そういう人は必ずばりばりと古典を読んでいるはずです。

古典を読むことによって、木に例えると幹の部分である、どういう風に考えていけばいいのかということを習得し、そこから木の枝葉にあたる、現代の複雑な問題点を解説したり、意見を述べたりできるのです。

これは逆ではありません。

ただ、多くの人は木の枝葉の部分ばかり、つまり具体的なことばかり追いかけるために、そこに書かれた具体的なこと以外は応用力がないのでわからないし、何か的確な意見を述べることができないのです。。

枝葉は無数にりますが、幹は太いですが一本なのです。

まずは、古典という幹の部分にあたるというのが、最も効率的な読書の仕方だと思います。