デカルトからニーチェから人間関係を学ぶ
「われ思う。ゆえに、われあり」のデカルトである。
デカルトは、少しでも疑われるものはすべて排除して、最終的に疑えないものは何であろうか、そこから哲学は出発しなければならない、と考えた。
それがこの有名な文句である。
つまり、いろいろなものを疑っていっても、その疑っている自分は疑いえない、という意味である。
この文句に至る考察にあたって、デカルトはいくつか自分にルールを決めている。
その一つが、自分が置かれた状況を変えるためには、自分が動いて、自分が状況を変えるしかない。そうするように自己を律すること、である。
引用すると、
「運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、常に努めること。そして一般に、完全に我々の範囲内にあるものは我々の思想しかないと信じるように自分を習慣づけること」である。
平たく言えば、貧乏な家庭に生まれたからといって、そういった運命を嘆くのではなく、嘆く自分に打ち克ち、生産的に働きかける、ということである。
また、お金がなかったり、彼女ができなかったり、同僚が先に出世をしたりしても、そういった状況を変えるよりも、自分が自分自身にできることをしなければならない、ということである。
これはニーチェの奴隷道徳にもつながっていると思う。
奴隷道徳とは、自己でないもの、他のものに対して、頭から否定して想像上で復讐することを言う。
要は、自分ができなかったり、劣っていたりすることを、自分自身の責任に向けるのではなく、他人へ、外へ向けて自分を正当化することである。
例えば、同僚が先に出世をしたのは、自分が同僚より劣っているのではなく、同僚が上司に取り入っているからだ、あいつはたいして仕事ができるような奴じゃない、というような感じである。
自分のことを棚に上げて、相手を批判する。
自分が相手の位置に上昇するのではなく、相手を自分の位置に引っ張り落とす。
これを奴隷根性という。
デカルトもニーチェも、状況や他人のせいにするのではなく、自分が行動し切り開かなければならない、と言っている。
さらに、デカルトの引用の後半で、
「そして一般に、完全に我々の範囲内にあるものは我々の思想しかないと信じるように自分を習慣づけること」とある。
これは、自分自身がどうこうできるものは、自分自身の思想しかない。他人を変えようとするのは自分の範囲内ではないので不可能である、ということだ。
だが、これはなかなか難しい。
人は自分に能力がないことを、構造的に見落とすようにできているからである。
つまり、自分の能力のなさを見たくないために、意識に上らせないようにするように人はできているのである。
これをフロイトは抑圧といった。
そして、見落とすだけではなく、無意識に能力がないことの反対のこと、自分はできる人間だ、ということを正当化するために、他者を否定してかかるのだ。
デカルトも、「常に努める」と言ったり、「自分を習慣づける」と言ったりしているように、意識的に念頭に置かないとできないことだ。
ただ、私たちはこういった偉大な先人たちのおかげで、自分が陥りやすい罠を意識に上らせることができた。
生産的な人間になるために、また人間関係を良好にするために、常にこういったことを意識しなければならない。