相手のことがわかれば、ビジネスも、人間関係も上手くいく

 これは人間関係では大事なことだ。

ただ、ほとんどの人は、相手がどう思っているのかと考えるとき、自分が相手の立場ならどう思うか、と考えてしまう。

もちろんこれでうまくいく場合もあるだろう。

よく、小学生などに「人を殺したらなぜ悪いの?」と聞かれて、「自分や好きな人が殺されたくないから人を殺したら駄目だ、自分や好きな人がされて嫌なことは人にはしてはいけない」と言うのと同じ理屈だ。

だが、この場合、自殺したい人はこの理屈が通らなくなってしまう。

実際、自殺願望のある人が、まったく関係のない人々を次々と殺してしまう事件は多い。

「自分がされて嫌なことは人にしてはいけない」というのはその通りであるかもしれないが、それだけでは不十分だと思うし、究極的には言葉で語ることはできない。

こういった負の側面だけではなく、誰かにプレゼントをするときなどでも、「これならもらってうれしいだろう」と、自分にあてはめて考えたりする。

自分がもらってうれしいものは、他人ももらってうれしいだろうと。

この理屈の欠点は、自分の思考を相手に押し付けていることである。

これは場合によっては迷惑になるし、行き過ぎると暴力的にもなる。

いや、これは相手の個別的な特殊的な人間性を否定して、自分と同じようなという理屈で一般化するという、暴力行為だと言ってもいい。

自分と他人は同じ考え、同じ道徳を持っているわけではないのだ。

 

では一体どうすればいいのだろうか?

結論から言うと、相手の表情や手足の動きなど、身体的特徴を真似るとよい。

そういった身体的特徴を真似ると、相手の思考がだんだんと見えてくる。

相手の考えを読むのではなくて、表面に出ていることをトレースするのだ。

例えば眉を上げていれば同じように眉を上げ、うつむけば同じようにうつむく。

その表象から内面を探ろうとしなくてもいいし、してはいけない。

これはなぜだろうか?

人の考えは、実は結構ふらふらとしている。

今日、これをするべきだと言った3日後には、これをするべきでない、と言ったりする。

その時の環境によって大きく変わる。

むしろ変わらない、変化しないというのは、成長していないということと同義だ。

もっとも自分の真ん中に思考の一本の柱のようなものがあって、それは変化しないかもしれない。

ただし、そこから枝分かれしていく、具体的なものは日々変わっていくのが普通なのだ。

なので、以前、相手がこう言っていたな、などの記憶を頼りに相手の考えを読もうとすると間違えてしまうことが多い。

そこで、身体的特徴をトレースするのである。

相手が考えていること、意識していることは、身体に無意識に表れてくる。

例えばイライラしたら貧乏ゆすりをしたり、照れたら鼻を掻いたり、嘘をついたら左上に視線をやったりする。

もちろんこれは一般的に言われているだけで、貧乏ゆすりをしたからと言ってイライラしているとは限らない。

そこを間違えてはならない。

これがどういう意味かなど考えずに、相手がやっているしぐさや表情を真似てみれば、自然と何らかの感情が浮かび上がってくる。

それが相手が考えていることだ。

相手の考えていることがわかれば営業でも上手くいくし、上司や部下との関係も上手くいくだろう。